ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設
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批判ばかりしても仕方がない。
じゃあ、イジメについてどんな描写をするんならOKなのか? なんといっても、「メフィスト」で山本弘が連載開始した「僕の光輝く世界」。 これだ! 私はこれを読みたかったんだ。 ジャンルはミステリだと思います。 「第一話 黄金仮面は笑う」のストーリーはですね…… 主人公は元イジメられっ子で、オタクの少年。 今はイジメから脱出してマンガ研究会で楽しく過ごしている。 ところがある日、黄金の仮面を被った謎の怪人に襲われ、川に突き落とされる。 命は助かったが頭を打ったため、しばらく入院することになった。 主人公は自分が変わってしまったことに気づく。 命を狙われて死にかかったというのに、怯えるどころか明るく振る舞うことができる。自分は内気な性格だったのに。それどころか、突然あらわれた美少女に積極的にアプローチして仲良くなることができた。いままでの自分には決してできなかった。頭を打って性格が変わったのか? まあいいや、とにかく明るい気分なのは良いことだ…… ところが、急展開。 夜ベッドで寝ていたら、黄金の仮面を着けた怪人が、再び襲ってくる。 必死に抵抗して、今回も難を逃れるが、医者も警察も怪人の存在を信じてくれない。 「そんな人、他に誰も見ていない」「誰かの恨みを買ってるわけでもないのに、顔を隠した奴が何度も殺しに来るって変だろう」「そもそも病室は暗いんだから、相手の格好がはっきり見えたはずがない」 主人公は混乱する。 では僕は幻覚を見たのか? あるいは妄想なのか? 頭を打ったせいで変になったのか? ……だが待て、仮に昨日の黄金仮面が幻覚だとしても、いちばん最初に僕を川に突き落とした黄金仮面がいる。あの時は頭を打つ前なんだから、幻覚ではあり得ない。 一体なにが起こってるんだ? そして驚愕の真相が明かされ、すべてのピースがピタッとはまるのです。 「そうだったのか」真相が分かった瞬間、ぐにゃりと世界が歪み、いままで見えてきたものが全く違ったふうに見える、騙し絵の快感。ザ・ミステリ! その騙し絵の衝撃が! 連続して来るんですよ!! えー、うそー! でも筋が通る! いま検索したけど、アレって本当にあるものなんだ! ド肝を抜かれる展開です! あと、読後感がいい。 「イジメられた過去」「謎の殺人者」「精神に変調をきたした主人公」という、「重い題材が三連発」にもかかわらず、読後感は非常にスッキリしています。全体的にすごく前向きで爽やかなのです。 重い話だけど暗くはない。むしろ、読むと希望がわいてくる。 一番素晴らしいと感じたのは心理描写ですね。 主人公の少年の心がすごく細やかに描かれていて、「わかるわかる! わかるわかる! その気持よーくわかる!!」という感じで、まさに我が意を得たり。これを読みたかったんだ。 元イジメられっ子が常に抱き続ける、人間や社会や大人に対する不信感と恐れ。 それでも、あたらしい生活へ踏み出していこうという勇気。 繊細で揺れ動く心をもつ少年の中の、恐怖と勇気の葛藤を見事に描いてくれた。 普通の人間よりも何倍も「世界の敵意と理不尽」で傷ついて、怯えて自分を問い詰めてしまう人間だから、だからこそ、最後の「勇気ある選択」が胸を打つんだよ。 主人公以外にも、他の奴ら……「いわゆる犯人」まで含めて、すべてのキャラの行動がスッと納得できる。納得を通り越して「だよね、オレでもそうするよ」と共感する。 今回、イジメっ子を許すシーンはないが、「これから、加害者と向い合って折り合いをつけることになるかも?」という布石は打ってある。 この作品ならば、きっと満足できる「イジメっ子との和解」を描いてくれるだろう。 PR
イジメっ子の扱いについて、自分が変なことを言ってるという自覚はある。
「中国嫁日記は差別か?」の問題では、 「差別かどうかを決めるのは本人だろう。月(ゆえ)さんが問題視してないのに、周りの人間が差別だというのは、月さん本人の善悪判断力を軽んじていることになる。差別してるのはそっちではないか?」 って書いた。 なのに、「琴浦さん」「聲の形」では、「イジメられっ子がイジメっ子を許した」のを「あり得ない」「やってはいけない」「こんなの駄目だ」って反応する。反応せずにはいられない。本人の善悪判断を否定した。 言動が矛盾しているとは思う。 私自身の実体験としても、「イジメられた本人が全く納得してないのに、周りの人間が許せ許せと圧力をかけてくる」のが不快だったわけですから、「本人が許しているなら、周りの人間も許すべき。圧力をかけるな」。 ただ1つだけ違う点があるとすれば、中国嫁日記はノンフィクションだけど、琴浦さんとかはフィクションだから、登場人物の行動は「作者の意図」だということ。 ようするに私は、「イジメられっ子が(あっさりと)イジメっ子を許す」という展開そのものじゃなくて、背後にある作者の思想を嫌がっているのかも。 きっと多くの人は「琴浦さん」に思想性なんて感じないんだろう。 でも私は感じるんだ。 「善悪よりも、友達であることを重んじる」思想性。 「トモダチって言っただけで悪も怨恨も克服できる」という思想性。 要するに、琴浦さんと森谷さんの間に、あれほどの悪事を許すほどの信頼関係、友情関係がいかにして構築されたのか、それが見えてこない、なんで突然、としか思えなくて、だから「それは作者の思想なのだろう」と思ってしまう。「登場人物の自然な自由意志」に見えない。 「じゃあどうすればいいんだ、イジメた奴は死ねばいいのか? 刑務所に入ればいいのか?」って言われると、「そのとおりですね」って私は答えます。 刑務所に入って反省してきて友だちになろうっていうんなら、まあ許さないこともないです。 あと、酷たらしく殺されて骸になったイジメっ子に「私、今ならあなたを許すわ」って展開なら大興奮です。 さすがにアクセル踏みすぎたな。 最後に少しだけ補足、っていうか、琴浦さんの展開を擁護すると。 ゲイのカミングアウトに関することで、こういうのを読んだのですよ。 「自分はゲイなんだとカミングアウトした時、 『そんなの気にしないぜ』『お前はお前じゃないか』 って言った人達は、結局離れていく。 長く深い友人関係になれるのは、むしろ、 『ホモとかゲイとか気持ち悪ーい』 と拒絶反応を示した人達相手のほうである」(大意) どうしてなのかは知らない、だが「いちど拒絶した」人間のほうが深い友だちになれるという。 だから「一度、琴浦さんを嫌ってイジメたからこそ、深い友だちになれる」こともあるかもしれない。 方向性として、そういう展開がアリだというのは、大筋では判る。 しれないけど、でも私にはその過程の説得力を感じることができなかった。 4話以降をみればみるほど違和感が湧き起こってくる。 第1話がすごく私の好みだったので、ハードルを上げすぎたのかもしれない。 琴浦さんに自分を投影したのが間違いだったかもしれない。 文句言いながらも11話まで見た。犯人が「罪は償わないと」って自首したシーンで「そうだぞ、お前も自首しろ森谷」って思った。告白なんぞやってる場合じゃねえ。一人の女の子として扱って欲しいなら、先にやることがあるでしょう。 そもそも私は「琴浦さん」の想定視聴者ではないから、共感できなくて当然なのかも。 ネットでこんな文章があったんですよ。 「「聲の形」はイジメ被害者のために描かれたわけではなく、むしろ加害者や傍観者のために描かれたので、ああいうカタチになるのは仕方なかった。『お前たち加害者は罪深い人間なんだ!! 死ぬべきなんだ!!!!』って描いちゃったら、加害者と傍観者は読まない」(大意) ああ、そうなのかと思いました。1%の納得と99%の苦痛。 加害者にわずかでも罪悪感や問題意識を持ってもらうのが目的で描いたんなら、「あの程度のチョロい仲直り」で正しいのかもしれないな。 「琴浦さん」もそうなのかな。 「琴浦さんのように苦しむ人達」のために作られた作品ではなく、「琴浦さんのような人を傷つけてしまった。あるいは助けられなかった人達」のために作られたのかな。 想定視聴者・読者によって作品展開はまったく違ってくるというお話でした。
古い話なんだけど。
2月20日発売の週刊少年マガジンに「聲の形(こえのかたち)」というマンガが載ったんですよ。 このマンガ、ネットで話題になりました。 主に批判的な意味でいろいろ言われていた。 その批判を一通り呼んで、私自身が「聲の形」読んで感じたことと練り合わせた。 すると何かが浮かび上がってきた。 なんで私が「琴浦さん」の4話~の展開に不快感と拒絶を覚えているのか。 わかった。 「友だちになろう」がイヤなんだ。納得出来ないんだ。あり得ない反応だと考えている。 「聲の形」は簡単に言うと、イジメの話です。 聴覚障がい者の女の子がクラスに転校してきて、主人公の少年はじめ、クラスメートみんなでその娘をイジメる。楽しそうに。 ところがある時、イジメの矛先が主人公に向いてしまう。 自分がいかに残酷なことをやってきたか気づいた主人公は、女の子に謝罪しようとするが、もう彼女は学校を去っていて、謝りようがない。 数年後、大人になった主人公は女の子に再会して、習っていた手話で謝罪を伝える。女の子も受け入れてくれる。これから二人は仲が良くなるだろう、と予感させて終わり。 このマンガが技術的に駄作だとは決して言わない。 むしろ上手いと思う。 でも技術の上手い下手とは違う部分で、私はこのマンガを拒絶する。 ネット(Twitterとか、2ちゃんねるとか)では、『イジメっ子が十分に報いを受けていないのでカタルシスがない』『主人公は反省したようだが他の連中がどうしたのか描かれていない』という不満があるようです。 同感なんだけど、私はそれ以前に、ある強烈な思想を感じ取って、この作品をまるごと嫌悪する。 『友達になろう思想』です。 『イジメっ子とイジメられっ子は友達になれる。友達になるべきだ』 『イジメられっ子もそれを望んでいる』 という思想。 バカな。と思わずにいられない。 イジメという言葉で隠蔽されているが、主人公は犯罪者なんですよ。集団で女の子に暴言を吐き、侮辱し、補聴器を奪って壊し、危害を加えたんです。それも一度や二度じゃなくて、何ヵ月も連続して。 強姦の犯人が被害者のもとに現れ『友達になろう』とか言ってるのと同じですよ。『また強姦するつもりか?』としか私には思えません。 主人公よ。『謝罪したい』、それはわかった。だがなんでそのあとに『友達になろう』が出てくるのか。 自分のやったことの罪深さを少しでも自覚していれば、口が避けても言えないはずだ。 あなたは宮崎勤と友達になれますか。宅間守と友達になれますか。 百歩譲って、あなたにはできるかもしれない、だが被害者遺族の前で言えますか。こいつと仲良くしろと。 犯罪者の分際で被害者と友達になりたがる! 酷い話だが、それだけならまだよい。この主人公が厚顔無恥なヤツというだけだ。 だがこの漫画はさらに理不尽!イジメられっ子の娘が『友達になろう』を受け入れてしまうこと。それどころか『昔から、手話で、友達になろうと言い続けてきた』のだ! バカなー! 幼女レイプ犯が数年後に被害者に再会して、 レイプ犯『友達になろう』 被害者の幼女『嬉しい! 私もあなたと友達になりたかったの(ポッ)』 いや、ないって! こんなのあり得ないって! 犯罪被害者の胸に、来る日も来る日も吹き上がってくる想いは怨恨です。 加害者に罰を与えてやりたい、自分の苦しみを少しでも思い知らせてあげたいという。ヤツが膝まずいて命乞いする姿を、願わない日はない。 もし恨みが晴らせないならば、次に来るのは恐怖です。もう私に関わらないで欲しい、もう私の前に姿を現さないで欲しい、一生ずっと遠くに行って欲しい。怖いから、またやられるんじゃないかと、何年たっても怖いからだ。永遠に隔離してほしい。 主要な感情はこの二つ、『謝って欲しい』でも『償って欲しい』でもない。友達なんてとんでもない。 なのになぜ、この娘は憎しみと恐怖を抱かない。そんな聖人が存在するはすがない。 「もう恨んでないよ、もういいよ」とは言うかもしれない。 でもそれは「恨んでも何も解決しないし、自分も楽になれないから、疲れ果てて諦めた」のです。 「諦める」と「許す」の間には無限の開きがある。 まして、許す(マイナスをゼロに)ではなく、友達になろう(マイナスをプラスに)だなんて、そんなの考えるわけがない。 このマンガ、『加害者の願望』で描かれているのでは? 『強姦したけど相手は感じてるから無罪』っていうマンガと同じですよ。 自分の罪悪感を軽くするための願望です。 イジメられっ子は友達になりたがっているのだと、その声に耳を傾けさえすれば良いのだと、あり得ない解決策をはかる。だから謝りさえすれば簡単に関係が修復できるのだと、大したことではないのだと。 相手も関係修復をのぞんでいるのだと! このマンガの作者は「警鐘」や「問題提起」のつもりで描いているのかもしれない。 でも私の目には「イジメっ子の自己正当化マンガ」に見える。 もういちど言う。 集団で危害を加えてきて、それにたいして十分な償いも反省もしていない人間と「友達になる」!? それは悪に屈服し媚を売る行為であり反社会的だ。 そうとしか思えない。そんなのをハッピーエンドとして描くのは不自然であり得ない、共感できない。 「琴浦さん」も同じで、「イジメっ子と友達になる」という発想自体にどうしても嫌悪をおぼえる。 教師は「仲直り」という言葉が大好きで、イジメというものを単なる一時的なケンカだと言いはり、「仲直りしろ」って執拗に言いいつのりますが、しかし「直るべき仲」なんて存在しない。血の通った人間関係なんて一片もない。 イジメっ子にとってイジメられっ子というのは人間じゃないんですよ。 突っついたらピクピク動く面白いオモチャなんです。 人間のカタチをしているけど絶対に人間ではない、殴っても脱がせてもいい泥人形として何年も何ヶ月も扱われるんですよ。 それなのになんでこっちは相手のことを人間扱いしてあげなくちゃいけないのか。 さらにはっきり言っちゃうと、「友だちになろう。みんな仲良く」という考えこそがイジメを産んで、そこまでは言わないにしても「イジメを激化させて」いるんじゃないのか? 仲良くなれない人はいる。 「仲良くなってはいけない人」すらいる。 「いけない」というのは、道徳的な話というより、お互いにとって危険だからやめましょう的な意味。 仲良くなれないのに、「いっしょに、なかよく、ともだち」と言って同じ場所に閉じ込めて、会話しろ、いっしょに遊べと強要し、一人でいることを決して認めない。「友だちにならない自由」を教師は絶対認めない。ひとりになりたがったら「秩序の破壊者」として「おまえのせいでみんなが迷惑してるんだぞ」「なんでみんなとおなじにできないんだ」と叱られる。「こいつはクラスの空気に逆らった、ヒトではないもの」としてレッテルが貼られる。その瞬間から、「みんなでこいつをいたぶろう、人間ではないこいつをいたぶって、自分たちが人間であることを確認しよう」という生贄の儀式が進行する。そんな加害者たちの集団と、なんで「仲良く」を強制され、「目を背けるな、握手しろ」と言われ続けられなくてはいけないのか。なんで「仲良くできないお前が悪い」「学校に行け」なのか。どうしても嫌だ。納得できない。 熱くなりすぎました。自分の体験とマンガをごっちゃにしすぎだ。 言いたいことを要約すると、 「イジメっ子とイジメられっ子が仲良くなる、という展開を容認できない」 「それも、イジメられっ子のほうが、仲良くなることを望む、というのは、どうやっても納得できない」 そして、 「イジメってこういうものなんだ、イジメられっ子の心ってこうなんだ(仲良くなりたがっている)、という、デマが世の中に広がることを、私は恐れる」 このマンガを真に受けた人達が、「友だちになろう」と言ってイジメられっ子をますます苦しめないか。懸念しています。 追記 このマンガ、連載になるそうですね。 読み切りと同じ話を丁寧にやるのか、違う展開になるのかは知りませんが、気になります。 今度は、「友だちになろう」の欺瞞性を描いてくれるのか。 じっくり読んで結論を出そうと思います。 2019年9月 追記 この記事にたくさんのコメントをいただいております。 ありがたいことですが、どうもコメント欄が長くなりすぎたのか、みなさんのコメントがうまく表示されません。 すみませんが、今後、この記事について何かおっしゃいたい方は、他の記事(最新の日記など)のコメント欄に書いていただけませんか?
4話に関しては、腹の底にすごい欲求不満があるので、まだ書く!
超能力アニメの両極端、「琴浦さん」と「THE UNLIMITED 兵部京介」を観ている。
兵部京介は、一話も面白くてカッコ良かったんだけど、でも第一話の時点ではイマイチのめり込めなかった。 もとの作品、絶対可憐チルドレンを読んでいるから。兵部京介というキャラがかなり三枚目であることを知っているから。 もちろん設定の上では彼は凶悪無比のエスパー犯罪者で、世界観も緊張と悲劇に満ちているんだけど、でもギャグを入れまくるもんでね!絶対可憐チルドレンは、悲劇的な世界観の中でも明るくおバカに戦う人達という話だから。 そういうコメディよりの物語の中でさんざん道化にされた兵部京介が、いまさら『コメディ要素抜きの二枚目、ダークヒーロー』として描かれても、どんな顔して観ればよいのやら。 同じ作者の『GS美神』で言えば、『ドクターカオス』ですよ。仮にドクターカオスのギャグ部分を全部なかったことにして、『超カッコいい天才科学者ドクターカオス』のアニメを作ったら、果たしてどうか。 たぶんカッコよければカッコいいほど『お前そんなキャラじゃないでしょ』『ジジイ無理すんな』という笑いが込み上げてくる。 兵部京介も同じで、カッコいいからこそ、何かのパロディのようで、すごく笑える。 わたし第一話を、何度も吹き出しながら観ました。 学ラン着用権www 解き放てwwwアンリミテッドwwww 同胞よwww安らかに眠れwwwとか言って惨たらしく殺すしwww カタスwwwトロフィ号wwwワロスwww 眩いwww銀髪を靡かせたwww漆黒の堕天使wwwwもうダメww死ぬwww こんな感じである。 兵部京介みたいな『美形の超能力者で、少佐で、組織のリーダーで、キザったらしく大活躍』というのは『中2』『厨二』としてさんざんネタにされてきた。アイタタな妄想として扱われてきた。そのせいもある。 絶望した!カッコいい兵部京介を素直にカッコいいと感じることができない、ネタ臭く感じてしまう自分のスレた感性に絶望した! ところが。 第二話「暗殺のメロディ」を観たら素直にカッコイイと思えた! ネタ臭さを感じない! 暗殺のメロディとか言ってる時点で「酔ってる感」全開なのに、だ! 第一話をもう一度見てみたら、やはりカッコイイ! 最初に見た時とはまるで違うアニメ! おお、感性が適応した! 良かった良かった! むかし「コミックマスターJ」に、パロディ漫画家のエピソードがありました。 パロディマンガばかり描いてる人がいたんだけど、離島に済む漁師の男がそのマンガ読んで、元ネタを知らないものだからストレートに感動してハマッてしまった。感動のあまり作者を招く。 「オレは全部ギャグでやってるのに、なんであいつは直球で感動してるんだ!?」と困惑する作者。 最終的には「作者がネタのつもりでも、読者が本気で感動したんならその感動は本物じゃないか!」 みたいな感じの結論になった気がします。 あれを思い出しましたよ。 「兵部京介」の場合、作者がネタでやってるってことはないと思うんですが…… |
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