ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設
ウェブサイト「カクヨム」で小説書いてます。
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 ああ、そうそう。 「エル・ファシルの逃亡者」という小説のことを最近知って。 ここんところ、暇さえあれば読んでいる。 エル・ファシルというのは「銀英伝(銀河英雄伝説)」に出てくる星の名前で。 「エル・ファシルの逃亡者」が、「銀河英雄伝説の二次創作」です。 パラレルワールドというか、前の銀英伝では悲惨な人生を送った人が、過去に戻ってやり直す話ですね。 前の銀英伝では無能・卑劣・狂人みたいなゴミクズ扱いを受けていた人々……たとえばアンドリュー・フォーク、たとえばヨブ・トリューニヒトなどが、実はそんなにダメなやつじゃなかった、という再評価の話です。 そう言われてみればそうかもな、と言いたくなります。 そのいっぽうでヤンやラインハルトを弾劾しているわけでもなく。 まあとにかく、説得力あるアナザーストーリーです。 読みごたえがすっごいある。 PR いま注目しているアニメは「魔法少女育成計画」と「終末のイゼッタ」だ。 育成計画のほうはまた別に書くけど、「終末のイゼッタ」すごいね。 これは軍事趣味と百合趣味の人は絶対見なきゃ。正座して見なきゃ。 もともと注目してなくて、「軍事描写が緻密」という噂をきき、「そりゃ大変だ、観なきゃ」で、いま3話まで一気に観た。 うおー。これはいいね。 本物の戦争を描いてやる、という覚悟を感じる。 第1話からして、格調高い歴史映画見てるみたいだし。 第2話の空戦も、第3話の塹壕戦も、弾丸のかすめる音、血しぶきの臭いが画面の外に溢れ出してきそうだし。エイルシュタットの兵器が旧式ばかりで泣ける。いくらなんでもFT17はダメだろ。作られた当時は革新的な戦車だったんだけどね。 それでいて悲惨なだけでなく、飛ぶシーンとか戦車投げるシーンとか、爽快感もあるしな。 なんでイゼッタが外国のために命かけて戦うのか動機が分からん、あの程度では足りない、って言ってる人いますけど、女の子同士の熱い絆、「引力」は何より尊いのですよ!! 早見沙織の演技も高貴な感じでいいし。 本当の君主とは、国の責任者とはこういうものだ、というカッコよさが伝わってくるので、この路線で凛々しくやってほしい。 期待している。 とにかく、気合の入ったアニメだ。売れて欲しい。 気になるのは「終末の」イゼッタという、不穏極まりないタイトル。 「聖戦の」イゼッタ、とかじゃないんですよ。 なんだこれ。何が終わるの? 「前半はゲルマニア帝国を倒す話だけど、後半になって、実はイゼッタは世界を終末に導く存在だと分かる。人類が力を合わせてイゼッタを討伐して、たった一人姫様だけが愛してくれて、二人で一緒に死ぬ」 やめろォォォ!! でも、それはそれで、俺きっと泣きながら見るだろうな。 そういう話、おれ好みだもん。 白鳥士郎「のうりん 13」を買った。 前巻の12話は過去を描いた短編集だったので、「11巻の続き」となる。 11巻が出たのはずいぶん前だった気がするなあ。 1年前なんだけど、その間に新シリーズ「りゅうおうのおしごと!」が3,4冊も出たので、もう何年も経った気がする。 前巻のラストで、ヒロインの林檎ちゃんが突然姿を消した。 今巻では、アイドルに復帰している。 引退する前よりも大人気で、テレビの中で華々しく活躍。 農業高校で一緒に過ごした日々は、まるで存在しなかったかのように。 いつもどおりの馬鹿騒ぎの日々。金上の商売、バイオのホモ騒動、非モテ軍団、ベッキー先生ご乱心。 いつもどおりなのに、林檎ちゃんが存在しないことで、どこか寂しい。 読んでみて、びっくりした。 すごいラブ寄せしてる!! ラブコメ要素はかなり減ってきた、もうラブコメやる気はないな、と思っていたけど。 根幹はイラストからして明らかに桃色というか、エロとか萌えじゃなくて少女漫画的になってるし、なんで男連中までこんな可愛いのよ(笑)。 でも今回の展開は「ラブコメ」じゃなくて、「ラブコメ終わらせにかかっている」という感じだな。 いままで、どっちかつかずだったものに、はっきり決着をつけている。 びっくりしたなあ。 これだと、耕作・林檎・農の三角関係も次で決着するね。 それにしてもさあ。 おかしい。 今回、ベッキー先生が「恋愛社会主義」の「総統」になってバレンタイン粉砕闘争をやったんだけど。 林太郎たちF組は非モテ軍団だから、ベッキー側について戦ったんだけど。 あんた仙田愛ちゃんという女の子に、やたらモテてなかったっけ? ある意味、耕作なんぞよりもリア充だよ。 なんでお前が「非モテの代表」みたいになってるの? 誰もその点にツッコまないのはなぜ? そりゃ愛ちゃんは、やや変わった女の子(野生児というか……原始人というか……)だけどな。 あの設定はなかったことに? 吉岡平「北海の堕天使」が復刻されたので買った。 時に1939年、ヨーロッパの架空の国・トルステイン公国は、超強力な新型戦艦「ビフレスト」と、それさえも超えた46センチ砲搭載戦艦「ヨツンヘイム」を建造した。 (正確には、作ったのは日本で、トルステインは注文しただけ) しかし謎の悪の組織によって「ヨツンヘイム」は奪取されてしまう。 「ヨツンヘイム」は神出鬼没のテロリスト戦艦と化し、世界中の船や艦隊を襲撃する。 フランス、ドイツ、イギリスの海軍さえも、「ヨツンヘイム」には全く歯が立たず、蹴散らされてしまう。 世界の平和は風前の灯! 主人公は、ふとした偶然で「ヨツンヘイム」の捕虜となるが、女艦長フレイヤを人質にとって脱出し、知略を尽くして「ヨツンヘイム」に立ち向かい、ついに打ち破る!! これは1991年頃に出た本で、当時まだ架空戦記というものがあまり流行していなかった、架空戦記勃興期の作品。そんな時代に架空の無敵戦艦が大暴れする話を書いた。 歴史的な先駆者なんだよ。 すごい作品なんだよ。 当時、「獅子王」という雑誌で連載されていたのを夢中で読んだよ。 でも…… おれは、この25年の間に、無駄に軍事知識を蓄えてしまった。 だから、いま読んでみたら、あまり楽しむことができなかった…… 「あり得ないだろう」と白けるのだ。 この本の前提は「46センチ砲搭載の戦艦は、40センチや38センチの戦艦よりも圧倒的に強い。束になっても敵わない」というものだが。 いやいや、そんなことないでしょう。 「ヨツンヘイムの射程は4万メートルもあって他の戦艦よりも1万メートル長いから、敵の弾が届かない距離から一方的に攻撃できる」とあるが。 アウトレンジ砲撃なんて机上の空論。 46センチだろうが38センチだろうが、現実に命中が期待できる距離は2万数千メートルしかない。 じっさいの海戦をみれば明らかですよ。 4万メートルから撃っても弾が切れるだけですよ。 たぶん徹甲弾を全部撃っても当たらないと思いますよ。 防御力の高さもあり得ない。作中では、ドイツのビスマルク級に撃たれて、砲弾を弾き返してビクともしない、それも距離1万メートルの至近距離で。 そんな無茶な。 大和型戦艦みたいに7万トンあるなら、38センチ砲を無効化する防御も可能だろうが。 「ヨツンヘイム」は基準排水量4万4000トンしかないんですよ。 「ビスマルク」や「ヴィットリオ・ヴェネト」より少し大きいだけです。 「ビスマルク」と同じくらいの重さで、遥かに強力な砲を積んでいるんだから、常識的に考えて「ビスマルク」よりも装甲は薄くなるはず。作中では「舷側装甲350ミリ、甲板装甲200ミリ」という大変な重装甲ですが、こんな分厚く出来るわけない。たぶん7割くらい。下手すりゃ半分で、それだと戦艦の主砲には全く耐えられない。38センチどころか、ポケット戦艦の28センチでも沈む。 よしんば「舷側装甲350ミリ」が事実だとしても、それでもビスマルク級の主砲は、1万メートルなどという至近距離ならば350ミリを貫通できるんですよ。ビスマルクなめんなよ。「戦艦らしく戦い、戦艦らしく沈んでいった最後の戦艦」だぞ。俺ビスマルク好きだから、噛ませ犬扱いでムカついております。 こんなに無敵のわけがない。 ビスマルクと戦ったら、勝てるとは思いますが、「ヨツンヘイム」の側だって相当なダメージを受けるでしょう。速力が落ちて、袋叩きですよ。それこそ史実のビスマルクのような最後を遂げますよ。 などということを、もちろん作者の吉岡平は、分かっているはず。 話を面白くするために、46センチ砲戦艦の強さを誇張してるのでしょう。 俺は頭が固くなって、その「話を面白くするための嘘」を受け入れない。 それだけのことで、作品は何も悪く無い。 っていうか、「ヨツンヘイム」の排水量を4万4000トンじゃなくて5万5000トンくらいに設定しておけば、それだけで無理が減る。それで良かったのでは……? なにか元ネタがあって、どうしても4万4000トンにしたかった? 「聲の形」について、劇場版アニメを観てきたので、いまの時点での考えをまとめます。 私は2013年、「聲の形」という読み切り漫画が発表されたとき、激しく批判しました。 この作品はイジメを助長する危険な内容だと。 イジメ加害者を免罪し、正当化する漫画だと書きました。 こちらが、当時の記事です。 なぜ、この作品を非難したのか。 理由は簡単に言うと、 イジメられっ子が、イジメに対して怒らない、聖人君子として描かれている。 イジメた相手と友達になりたい、というのが許せない。レイプ犯が犯した相手と友達になりたがるのと同じで、恐怖を与える邪悪な行為でしかない。ぜんぜん罪を償ってないのに、それどころか罪を重ねるなんて。 そんな邪悪な行為が好意的に描かれて、相手の女の子がそれを受け入れてしまう、という結末が、どうしても許せない。 この作品を読んだら、「イジメなんて大したことないんだ、簡単に許してもらえる程度のものなんだ」と思ってしまう。そういう考えが世の中に広まってしまう。だから私はこの作品を憎む。 と、こんな感じです。 賛同意見も反論もありました。 詳しく知りたい方はリンク先を読んでいただければ。 今、侍従長さんという方が、リンク先の方にまとまった反論を書いているので、この際だから私の意見をまとめます。 3年半の間に、私の考えは変わりましたので。 「聲の形はイジメ正当化漫画」というのは、あくまでも、読み切り版に対する主張です。 その後、連載版を読んで、私の態度は軟化しました。 連載版では、イジメをやった主人公、石田は、罪を償いたいと思っている。自殺するほどに思い詰めているし、自殺を回避したあとも「自分は罪深い、まだ償ってない、自分には友だちになる資格が無い」と思い続けている。 贖罪意識がしっかり描かれているので、長編版の石田に対しては、もう憎しみはない。 「イジメられっ子・西宮硝子がイジメを許してしまうのが、理解できない、あり得ない、都合のいい聖人君子だ」 という問題に関しても、「なぜ西宮はイジメを憎まないのか」が詳細に描写されている。 西宮は、自分の障害のせいで母親がさんざん苦しんだから、「何もかも自分が悪い」「自分は価値の無い人間だ」という、自尊感情のない人間になってしまったのだ。だからイジメられても相手を憎まない。 連載版の声の形は、石田の側から見れば、「自分のやったイジメを償う話」だが、西宮の側から見れば、「なんの価値も無い私だけど、人の役に立てた。良かった」という、「自尊感情を獲得する話」である。 そんなわけで、 連載版に関しては、「石田が罪を償って無い」「西宮が聖人君子」という問題が解決されています。 だから連載版に関しては、「憎い、許せない」というほどの敵意はありません。 いまでも増田は声の形を憎んでいる、というのは誤解です。 逆に言えば読み切り版には、現在でも強い敵意がありますが。 読み切り版には西宮の内心なんて描いてないですよ。 読み切り版では「なぜか許してくれる人」ですよ。 あれを「イジメ助長漫画」と思ってしまうのは何も間違ってない。 まあ、連載版に関しては「不満がある」程度ですね。 読み切り版には「いますぐ漫画の中に入って主人公を八つ裂きにしたい」って思ってるけど。 不満の理由は3つあって、 1つ、「西宮とは違うタイプのイジメられっ子もいることが十分に描写されていない」 西宮みたいなイジメられっ子もいるのは分かった。 しかし、他のタイプの、イジメられて普通に怒る人々もいるはずで。 イジメられっ子とは、ああいうものだ、と思われてしまうことは、やはり怖いですね。 2つめの不満。 「この物語は私の物語ではない、この物語は私を救ってくれない」 という点ですね。 イジメの話だというなら、そこには私が描かれている、私の心を代弁して肯定してくれる。 そう期待して読んだのに、西宮というイジメられっ子は、全く私と違うメンタリティで。 こんなの私が知ってるイジメと違う! ここで、「嘘だ!」「こんな奴はいない!」「イジメを正当化するために嘘を書いている!」と怒ってしまったのが、私のダメなところで。 私が知らないだけで、こういうタイプのイジメられっ子もいるし、これを読んで「私のことを書いてもらえた」「わかってもらえた」という人間もいるのだろう。 という想像力をもつべきだった。 そこは自己批判します。侍従長さんのいうことが正しい。 要するにイジメられっ子には自己評価が低いタイプと高いタイプがいて、西宮は極端に低い方で、私は高い方だってことですよ。だから同じようにイジメられても全く違う世界が見えている。強烈な違和感がある。 自己評価が高いイジメられっ子って何かって? 一言で言えば、邪気眼系ですよ。 「ボクは本当は凄いんだぞ、天才なんだぞ、大魔王なんだぞ、神様なんだぞ、まだ覚醒してないだけなんだぞ、それなのに、愚かなる地球人類どもめ……」 みたいな妄想をどんどん膨らませるタイプですよ。 こういう妄想で自我を守って、その妄想のせいでますますイジメられる人間です。 正確には、妄想が妄想に過ぎないことはわかっているので、妄想を貫けなくなって自己評価が激落ちする瞬間はある。すぐに妄想を被り直すだけで。「ものすごく高い自己評価」と「ものすごく低い自己評価」が両方ある。 そういうタイプの人が世間と折り合いをつける話を描いてくれないと、私は救われないんですよね。 まあ、「聲の形」が私向けじゃなかったことについては、怒っても仕方ない。 的はずれな怒りです。 世の中にはたくさんの作品があるので、私向けの作品を探そう。 たとえばガガガ文庫の「AURA 魔竜院光牙最後の闘い」(田中ロミオ)とか、「ほうかごのロケッティア」(大樹連司)なんかは、私のような人間のための作品であると言えます。 現実がつらくて妄想に逃げ込んでしまった人間が、妄想の力を借りつつ現実に立ち向かって幸せをつかむ話ですよ。 妄想に溺れるのもダメだが、妄想を否定すればいいってものでもない、ほどほどに共存しよう、という感じで。 とくに「ほうかごのロケッティア」は、イジメに関する小説の中で一番感動しました。 あれは私のために書かれた。と勝手に思っている。 不満3つめ。 これは「劇場版 聲の形」を観てきて再確認したんですが。 この話は、「イジメを許せ」とは言ってない。 でも「イジメっ子もイジメラレっ子も、同じ人間」「話しあえば分かり合える、仲良くなれる」とは間違いなく言ってる。 丁寧に律儀に書けば書くほど、そういう話になっている。 「それは偽善だ、自己満足だ」と、劇中で指摘されてますが、でも最終的に分かり合っている。 偽善ではありませんでしたと証明されちゃってる。 だから私が一番最初の批判記事に書いた通り、「友達になれる思想」「友達になるべき思想」というのは、やっぱりこの作品にある。 そして私は「人と人は仲良くなれる、なるべき」という思想、大前提そのものに疑問を抱く。 そんなこと言ってるからイジメがなくならないんじゃないのか。 合わない奴とは仲良くなる必要ない。 嫌な奴とは縁を切っていい。 そういうことにしないと、これからも、たくさんの子供がイジメを受け続けるだろう。 イジメを受けた子供が、イジメから逃げることができずに死ぬだろう。 ともだち、という呪縛のせいでだ。 だから、やっぱり結論としては、「この作品はイジメを助長する」 イジメ関連以外での感想といえば、 「観客は女の子と、カップルばっかりだ!!」 「見るからにオタク、という奴は俺しかいない!」 「ガルパンとは客層ぜんぜん違う!」 「とにかく、ゆづるが良い奴。あんないい子初めて見た。けなげで泣ける。悠木碧の演技も最高。西宮役・早見沙織の芝居も良いとは思うけど、『悠木碧に、こんな演技の引き出しが!!! もともと上手かったけど別次元に飛躍した!』という感動には負ける」 「ゆづるは『クソ生意気な少年でありながら、姉を気遣う心優しい少女』!! ほんと良い! 尊い!」 「ゆづる最高!!!」 「ショートカットでボーイッシュって、俺の好みとは正反対なんだけど大好き!!!」 「ゆづる! ゆづる!!」 |
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