ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設
ウェブサイト「カクヨム」で小説書いてます。
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 「聲の形」について、劇場版アニメを観てきたので、いまの時点での考えをまとめます。 私は2013年、「聲の形」という読み切り漫画が発表されたとき、激しく批判しました。 この作品はイジメを助長する危険な内容だと。 イジメ加害者を免罪し、正当化する漫画だと書きました。 こちらが、当時の記事です。 なぜ、この作品を非難したのか。 理由は簡単に言うと、 イジメられっ子が、イジメに対して怒らない、聖人君子として描かれている。 イジメた相手と友達になりたい、というのが許せない。レイプ犯が犯した相手と友達になりたがるのと同じで、恐怖を与える邪悪な行為でしかない。ぜんぜん罪を償ってないのに、それどころか罪を重ねるなんて。 そんな邪悪な行為が好意的に描かれて、相手の女の子がそれを受け入れてしまう、という結末が、どうしても許せない。 この作品を読んだら、「イジメなんて大したことないんだ、簡単に許してもらえる程度のものなんだ」と思ってしまう。そういう考えが世の中に広まってしまう。だから私はこの作品を憎む。 と、こんな感じです。 賛同意見も反論もありました。 詳しく知りたい方はリンク先を読んでいただければ。 今、侍従長さんという方が、リンク先の方にまとまった反論を書いているので、この際だから私の意見をまとめます。 3年半の間に、私の考えは変わりましたので。 「聲の形はイジメ正当化漫画」というのは、あくまでも、読み切り版に対する主張です。 その後、連載版を読んで、私の態度は軟化しました。 連載版では、イジメをやった主人公、石田は、罪を償いたいと思っている。自殺するほどに思い詰めているし、自殺を回避したあとも「自分は罪深い、まだ償ってない、自分には友だちになる資格が無い」と思い続けている。 贖罪意識がしっかり描かれているので、長編版の石田に対しては、もう憎しみはない。 「イジメられっ子・西宮硝子がイジメを許してしまうのが、理解できない、あり得ない、都合のいい聖人君子だ」 という問題に関しても、「なぜ西宮はイジメを憎まないのか」が詳細に描写されている。 西宮は、自分の障害のせいで母親がさんざん苦しんだから、「何もかも自分が悪い」「自分は価値の無い人間だ」という、自尊感情のない人間になってしまったのだ。だからイジメられても相手を憎まない。 連載版の声の形は、石田の側から見れば、「自分のやったイジメを償う話」だが、西宮の側から見れば、「なんの価値も無い私だけど、人の役に立てた。良かった」という、「自尊感情を獲得する話」である。 そんなわけで、 連載版に関しては、「石田が罪を償って無い」「西宮が聖人君子」という問題が解決されています。 だから連載版に関しては、「憎い、許せない」というほどの敵意はありません。 いまでも増田は声の形を憎んでいる、というのは誤解です。 逆に言えば読み切り版には、現在でも強い敵意がありますが。 読み切り版には西宮の内心なんて描いてないですよ。 読み切り版では「なぜか許してくれる人」ですよ。 あれを「イジメ助長漫画」と思ってしまうのは何も間違ってない。 まあ、連載版に関しては「不満がある」程度ですね。 読み切り版には「いますぐ漫画の中に入って主人公を八つ裂きにしたい」って思ってるけど。 不満の理由は3つあって、 1つ、「西宮とは違うタイプのイジメられっ子もいることが十分に描写されていない」 西宮みたいなイジメられっ子もいるのは分かった。 しかし、他のタイプの、イジメられて普通に怒る人々もいるはずで。 イジメられっ子とは、ああいうものだ、と思われてしまうことは、やはり怖いですね。 2つめの不満。 「この物語は私の物語ではない、この物語は私を救ってくれない」 という点ですね。 イジメの話だというなら、そこには私が描かれている、私の心を代弁して肯定してくれる。 そう期待して読んだのに、西宮というイジメられっ子は、全く私と違うメンタリティで。 こんなの私が知ってるイジメと違う! ここで、「嘘だ!」「こんな奴はいない!」「イジメを正当化するために嘘を書いている!」と怒ってしまったのが、私のダメなところで。 私が知らないだけで、こういうタイプのイジメられっ子もいるし、これを読んで「私のことを書いてもらえた」「わかってもらえた」という人間もいるのだろう。 という想像力をもつべきだった。 そこは自己批判します。侍従長さんのいうことが正しい。 要するにイジメられっ子には自己評価が低いタイプと高いタイプがいて、西宮は極端に低い方で、私は高い方だってことですよ。だから同じようにイジメられても全く違う世界が見えている。強烈な違和感がある。 自己評価が高いイジメられっ子って何かって? 一言で言えば、邪気眼系ですよ。 「ボクは本当は凄いんだぞ、天才なんだぞ、大魔王なんだぞ、神様なんだぞ、まだ覚醒してないだけなんだぞ、それなのに、愚かなる地球人類どもめ……」 みたいな妄想をどんどん膨らませるタイプですよ。 こういう妄想で自我を守って、その妄想のせいでますますイジメられる人間です。 正確には、妄想が妄想に過ぎないことはわかっているので、妄想を貫けなくなって自己評価が激落ちする瞬間はある。すぐに妄想を被り直すだけで。「ものすごく高い自己評価」と「ものすごく低い自己評価」が両方ある。 そういうタイプの人が世間と折り合いをつける話を描いてくれないと、私は救われないんですよね。 まあ、「聲の形」が私向けじゃなかったことについては、怒っても仕方ない。 的はずれな怒りです。 世の中にはたくさんの作品があるので、私向けの作品を探そう。 たとえばガガガ文庫の「AURA 魔竜院光牙最後の闘い」(田中ロミオ)とか、「ほうかごのロケッティア」(大樹連司)なんかは、私のような人間のための作品であると言えます。 現実がつらくて妄想に逃げ込んでしまった人間が、妄想の力を借りつつ現実に立ち向かって幸せをつかむ話ですよ。 妄想に溺れるのもダメだが、妄想を否定すればいいってものでもない、ほどほどに共存しよう、という感じで。 とくに「ほうかごのロケッティア」は、イジメに関する小説の中で一番感動しました。 あれは私のために書かれた。と勝手に思っている。 不満3つめ。 これは「劇場版 聲の形」を観てきて再確認したんですが。 この話は、「イジメを許せ」とは言ってない。 でも「イジメっ子もイジメラレっ子も、同じ人間」「話しあえば分かり合える、仲良くなれる」とは間違いなく言ってる。 丁寧に律儀に書けば書くほど、そういう話になっている。 「それは偽善だ、自己満足だ」と、劇中で指摘されてますが、でも最終的に分かり合っている。 偽善ではありませんでしたと証明されちゃってる。 だから私が一番最初の批判記事に書いた通り、「友達になれる思想」「友達になるべき思想」というのは、やっぱりこの作品にある。 そして私は「人と人は仲良くなれる、なるべき」という思想、大前提そのものに疑問を抱く。 そんなこと言ってるからイジメがなくならないんじゃないのか。 合わない奴とは仲良くなる必要ない。 嫌な奴とは縁を切っていい。 そういうことにしないと、これからも、たくさんの子供がイジメを受け続けるだろう。 イジメを受けた子供が、イジメから逃げることができずに死ぬだろう。 ともだち、という呪縛のせいでだ。 だから、やっぱり結論としては、「この作品はイジメを助長する」 イジメ関連以外での感想といえば、 「観客は女の子と、カップルばっかりだ!!」 「見るからにオタク、という奴は俺しかいない!」 「ガルパンとは客層ぜんぜん違う!」 「とにかく、ゆづるが良い奴。あんないい子初めて見た。けなげで泣ける。悠木碧の演技も最高。西宮役・早見沙織の芝居も良いとは思うけど、『悠木碧に、こんな演技の引き出しが!!! もともと上手かったけど別次元に飛躍した!』という感動には負ける」 「ゆづるは『クソ生意気な少年でありながら、姉を気遣う心優しい少女』!! ほんと良い! 尊い!」 「ゆづる最高!!!」 「ショートカットでボーイッシュって、俺の好みとは正反対なんだけど大好き!!!」 「ゆづる! ゆづる!!」 PR
無題
劇場版からは「イジメ加害者も被害者も、どちらも若気の至り。過去に囚われず仲良くしよう!」というメッセージを感じました。
コラボを決定した文部科学省の方々は、イジメという問題を軽く見ているのでは?と思ってしまいます。
無題
でも登場人物が全員可愛い(性格除く)ので、観て良かったとは思います(笑)
無題
>ファブリーズさん
「過去に囚われるな」ってメッセージは間違いなくありますね。 被害者側も加害者側も囚われるなと。 そうやって「加害者も、救われるべき存在」として描いているから、「もっと加害者に報いを」という人間の神経を逆撫でするんです。
無題
世の中には私よりも強硬な「聲の形アンチ」の人がいるわけですが……
(いまの私は、やや嫌いくらい) そういう人たちの糾弾を読んで、分かったことがあります。 聲の形肯定派と否定派の間では「イジメとはどういうものか」の認識がぜんぜん違うんです。 肯定派は(聲の形という作品自体も)、イジメは交通事故みたいなものだと思っている。 誰でも被害者にはなりえるし、加害者にもなり得る。加害者だから極悪人というわけじゃない、普通の人間だってやっちゃうことなんだから、加害者と相互理解可能だ。償うことは十分に可能だ。 いっぽう否定派はイジメを強姦みたいなものだと思っている。あるいはそれ以上に悪いと。 交通事故は不注意で起こすものだけど、不注意で強姦するなんてあり得ない、強姦は「常人とは違う邪悪な人間」が、「断固たる悪意と計画性」をもって起こす。 だからあいつらは普通の人間じゃない、化物なんだと、対話なんてしちゃいけないし、更生なんてあり得ない、一生檻から出しちゃいけない人たちなんだ、なんでそんなのを対話可能な人間として描くんだ、許せない、と。 「聲の形」は「イジメを許せ、泣き寝入りしろ」とは言ってないけど、「十分な贖罪があればイジメを許すことはできるし、許されるべき」とは言っている。 それが我慢ならない、という反発なのだと思います。 「私達被害者は人間扱いされなかったのに、なんで加害者を人間扱いして救わなければいけないのか」 この理不尽への怒り。 石田に対する怒りはなくなっても、作品自体に対するこの怒りは、いまでも私の中にありますね。
無題
いじめた側といじめられた側の恋愛なんてどだい書くのに無理があった。
24時間テレビでもやらない
無題
>>OOさん
そうなんですけど…… でもまあ、その「イジメたら惚れてくれるなんて、あり得ない」という、「あり得ない」の部分こそが、作品の肝の部分で、私が反発している毒の部分こそが、ファンには受けている……読者を引き込むフックになっているのだと思いますね。 イジメた相手に誤っても許してくれませんでした、それでも一生かけて償います、という話にすれば道徳的には正しくなるし、私も「それで良いんだ」って言うでしょうが、面白いかといえば別の問題で。 「イジメたけど、俺のことを恨んでません。それどころか俺に惚れてくれました」「なんで???」という、私には納得出来ない理不尽な部分こそが。 バトル漫画でも、才能あって訓練受けてる強い奴が勝つのは当たり前で、弱いはずの奴が勝ってしまう異常事態だから面白い。 そんな感じで、「作者はイジメのことをわかってないから、こう描いちゃった」わけではなくて、「分かったうえで、引き込むためにこう描いた」と思ってます。
無題
原作だと、「石田と西宮の関係性だけが正解ではない。一生許さないイジメられっ子がいても良い」と描かれていたと思うのです。
真柴くんはそのために出てきた。 でも映画版だと真柴くんがイジメられっ子だったという過去は描かれないし、教師に水ぶっかけるシーンもないし、真柴くんは「通りすがりのイケメン」という感じで、なんのために出てきたのかわからない……
無題
だからまあ、侍従長さんをはじめとする人たちの反論は、正しい部分も多々あるのですが、「聲の形はイジメを許せとは言ってない」という主張だけは明らかに間違いで、言ってる。
「条件付きで許せ」と言っている。 「絶対に許せない」人にとっては、それを言ってくる奴は敵でしか無い。 私自身としては、連載版を呼んでいるうちに意見が変わり、「石田くらい反省してくれるなら許す」と思ってますが…… でも私の経験だと、一言の謝罪もしないんだ、彼らは。私が謝罪を要求する度に、「黙れ、精神病院に行け」って、追い打ちをかけてくるんですよ。 西宮ではなく、石田のような「深く反省するイジメっ子」こそがフィクションかもしれませんね。 |
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