ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設 ウェブサイト「カクヨム」で小説書いてます。 こちらです https://kakuyomu.jp/users/pennamec001
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私が2013年に、「聲の形」を批判して書いた記事に、またコメントが付きました。
 読んでいただけて、ありがたいです。
 
 「聲の形は、イジメっ子の自己正当化マンガに思える」

 これの中で、私は「聲の形」を激しく批判しました。読み切り版についての批判です。
 イジメられる側の気持ちが全く分かっていない、イジメを正当化するストーリーだから許せない、と思いました。
 イジメた側の石田がぜんぜん反省してないように見えるのが許せなかった。
 イジメられた西宮硝子が聖人のように相手を許してしまっているのが許せなかった。
 イジメなんて大したことじゃないぜゲラゲラウヒョウヒョという声が聞こえてきて、魂を踏みにじられた。
 この怒りと苦しみは一生忘れることはないと思う。
 だから激しく批判したわけです。
 
 その後、連載版を読んで、私の意見は変わりました。
 
 石田が反省して、罪を償おうとしていることは、連載を読めばわかりました。
 西宮が石田と友達になりたがったのは、「イジメを許した」わけではない。もともと自己嫌悪が強く、自分は他人に迷惑を賭けている罪深い存在である、いじめられても仕方ない存在だと思っているから、というちゃんとした理由がある、とわかりました。

 そのあと映画も観に行ったので、映画の感想はこれです。

 「劇場版 聲の形」観てきたので
  
 私は「聲の形」について言いたいことは全部言ったし、勘違いや思い違いだったことは、自分の間違いだと認めた。
 侍従長という人にさんざん批判されて、私の側にも問題があることは分かった。
 
 今の考えは昨年10月に映画を観た時と同じですね。
 再掲載します。

 不満の理由は3つあって、

 1つ、「西宮とは違うタイプのイジメられっ子もいることが十分に描写されていない」
 西宮みたいなイジメられっ子もいるのは分かった。
 しかし、他のタイプの、イジメられて普通に怒る人々もいるはずで。
 でも描いてくれないんですよね。
 映画版では真柴くんの過去が描かれていないので、西宮が唯一の正解になってるんですよ。

 2つめの不満。
「この物語は私の物語ではない、この物語は私を救ってくれない」
 という点ですね。
 イジメの話だというなら、そこには私が描かれている、私の心を代弁して肯定してくれる。
 そう期待して読んだのに、西宮というイジメられっ子は、全く私と違うメンタリティで。
 こんなの私が知ってるイジメと違う!
 ここで、「嘘だ!」「こんな奴はいない!」「イジメを正当化するために嘘を書いている!」と怒ってしまったのが、私のダメなところで。
 私が知らないだけで、こういうタイプのイジメられっ子もいるし、これを読んで「私のことを書いてもらえた」「わかってもらえた」という人間もいるのだろう。
 という想像力をもつべきだった。
 そこは自己批判します。侍従長さんのいうことが正しい。
 要するにイジメられっ子には自己評価が低いタイプと高いタイプがいて、西宮は極端に低い方で、私は高い方だってことですよ。だから同じようにイジメられても全く違う世界が見えている。強烈な違和感がある。
 自己評価が高いイジメられっ子って何かって?
 一言で言えば、邪気眼キャラ、中二病キャラですよ。
 「ボクは本当は凄いんだぞ、天才なんだぞ、大魔王なんだぞ、神様なんだぞ、まだ覚醒してないだけなんだぞ、それなのに、愚かなる地球人類どもめ……」
 みたいな妄想をどんどん膨らませるタイプですよ。
 こういう妄想で自我を守って、その妄想のせいでますますイジメられる人間です。
 正確には、妄想が妄想に過ぎないことはわかっているので、妄想を貫けなくなって自己評価が激落ちする瞬間はある。すぐに妄想を被り直すだけで。「ものすごく高い自己評価」と「ものすごく低い自己評価」が両方ある。
 そういうタイプの人が世間と折り合いをつける話を描いてくれないと、私は救われないんですよね。
 まあ、「聲の形」が私向けじゃなかったことについては、怒っても仕方ない。
 的はずれな怒りです。
 世の中にはたくさんの作品があるので、私向けの作品を探そう。
 たとえばガガガ文庫の「AURA 魔竜院光牙最後の闘い」(田中ロミオ)とか、「ほうかごのロケッティア」(大樹連司)なんかは、私のような人間のための作品であると言えます。
 現実がつらくて妄想に逃げ込んでしまった人間が、妄想の力を借りつつ現実に立ち向かって幸せをつかむ話ですよ。
 妄想に溺れるのもダメだが、妄想を否定すればいいってものでもない、ほどほどに共存しよう、という感じで。
 とくに「ほうかごのロケッティア」は、イジメに関する小説の中で一番感動しました。
 あれは私のために書かれた。と勝手に思っている。
 
 不満3つめ。 
 これは「劇場版 聲の形」を観てきて再確認したんですが。
 この話は、「イジメを許せ」とは言ってない。
 でも「イジメっ子もイジメられっ子も、同じ人間」「話しあえば分かり合える、仲良くなれる」とは間違いなく言ってる。
 「無条件でイジメを許せ」とは言ってないけど、「十分に反省してるんだからイジメを許せ」とは言っている。
 だから私が一番最初の批判記事に書いた通り、「友達になれる思想」「友達になるべき思想」というのは、やっぱりこの作品にある。
 そして私は「人と人は仲良くなれる、なるべき」という思想、大前提そのものに疑問を抱く。
 そんなこと言ってるからイジメがなくならないんじゃないのか。
 
 一番言いたいのは2番の「私を救ってくれなかった」ですね。
 でも、言ったって仕方ないことですよね。
 「聲の形」を批判しても、私が望むように変わってくれるわけではない。
 私を救ってくれる作品は自力で探すべき、ないなら自分で書くしかない。
 いまはそう思っています。
 これをもって「聲の形否定論」の総括としたいです。

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