ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設
ウェブサイト「カクヨム」で小説書いてます。
こちらです
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ブラッドファイトを更新しました。
今回は原稿用紙で60枚も軍法会議をやっていました。 すると合計400枚に達し、まったく終わる気配が無い…… どうなってしまうんだろう…… ブラッドファイト分割版4 PR
こないだ「ツンデレは基本的にロリが入っているべきで」と書いたことに対して多くの批判がありました。
某「お前が知ってるツンデレはルイズとヒナギクの二人だけじゃないか?」 ますだ「その二人が念頭にあったのは確かですけど……」 某「『らき☆すた』のかがみんは胸小さくないぞ!」 ますだ「かがみんの胸が大きく見えるのはこなたと比べるからで、小さいか大きいかと問われれば間違いなく小さい」 某「『現代魔法』の弓子は巨乳だぞ!」 ますだ「それはおそらくストーリー上の要請です。こよみが自分の幼児体型にコンプレックスを持っているから、そのコンプレックスを際立たせるため、憧れの存在である弓子はメリハリの利いた体型である必要があった。もし弓子がナイチチだと焦点がブレる。そういう理由ですよね?」 某「誰に確認してんだ!」 ますだ「ああ……ええと……とにかく」 某「じゃあツンデレ100人言ってみろ! 何の参考資料も見ずに言ってみろ! 言えないのに『かくあるべし』って語るな!」 ますだ「あうっ……」 知ったかぶりしてすみませんでした。 「オタクは」とか「ツンデレは」「萌えは」とか大きなことを代表面して語るのはやめて、「私は」の話をしましょう。 すべての虚飾をとりさって、「マリじゃおにんにんおっきしないお!」と。 某「虚飾を取りすぎです。言葉を選んでください」 すいません。 私がハアハアする二次元おにゃのこって、基本的に三種類だと思うんですよ。 1、「決してぼくを傷つけない、イジメないという安心感がある」 弱々しい女の子、という意味もあるし、慈愛あふれる女の子という意味もあります。 前者はロリコンで後者はマザコンだから正反対、などといわれますが、でも表裏一体なんですよ。 エヴァでいうと、綾波に感じる魅力はこれ。 2、「この人にだったらイジメられてもいい! いやむしろ犬とお呼び下さい!」 私が熱心にアニメを観るようになったのは、たぶん1990年の「ナディア」からだと思います。 当時の私には眼鏡っ子趣味がほとんどなくて、いちばん好きなヒロインはナディアでした。あのアニメ史上空前(絶後ではない)のワガママ娘です。 ナディアが主人公のジャンをさんざん冷たく罵ったり、肉は死体だから食べない! とか凄いワガママ言ったり、たまにしおらしくなるけどやっぱり怒ったり、空き缶を踏んづけたりするシーンで、なんとも言えないドキドキを覚えていました。空き缶を踏んづけるシーンですごく興奮して、「こんな気持ちを親に知られたら生きていけない」などと悩んだことを昨日のように思い出します。 マゾヒスティックだなあ…… いまは、ナディアは「ワガママにしても覚悟や根性がない、甘えてるワガママキャラだから、あんまり好きじゃない」んですけど、当時はそんなこと考えませんでした。 エヴァでいうとアスカに感じるのがこれ。 旧劇場版でシンジがアスカに「いつもみたいに僕をバカにしてよ!!」と口走ったとき、「アンノ監督はなんでいつもぼくのことを完璧に把握しているんだろう」と思ったものです。 3、「ペットのように、動き回るのを上から見おろしているのが楽しい」 1と2は、自分を主人公と重ね合わせてヒロインと接しているんですが、3はもっと距離があります。 この場合、「身近にいたらウザいだろうな」というキャラクターでも好きになれます。 さいきんアニメをみてもマンガを読んでも1と2の楽しみ方ができなくなって、みんな3になりつつあります。困ったもんです。また、アニメキャラが夢に出てくるくらいのめりこんでみたいです。 で、マリはどうなのかっていうと……どれでもないんだよ! 1と2はまったく該当しない。 じゃあ3しかないんだけど、3はキャラクターの内面にあんまり踏み込まない、「外見から入る」愛で方だから、外見が趣味に合うかどうかがすごく重要になる。乳がデカイ時点でありえない! マリに萌えられる人ってどういう理由で萌えているんだろう。 あんな「おいでなすった」「しゃあない」「スッゲー痛ぇ」とかいう喋り方で、無邪気な戦闘好き……まったくの野蛮人キャラならまだわかるけど、英語ペラペラの才女でもあるし…… ネットでマリ好きの感想を読んだんですが、やっぱりよくわからない。 「やっぱり眼鏡でおさげですよ。微妙に似合わない、えんじ色の眼鏡をかけているのがまたいい」って言われてもなあ……まったくピンと来ない。 眼鏡っ娘が「スッゲー」などという言葉を使ってはいかんですよ。 このさいだから全力でぶっちゃけるけど、「スッゲー痛いけど……楽しいからイイ!」みたいな喋り方をする女の子でいいならアニメ観なくてもいいじゃないですか、そういう娘、現実にいるじゃないですか。現実にはありえない女の子が観たいんじゃないのか……? でも、これはもしかすると、私が知らなかった、いや今まで存在しなかった萌えキャラのジャンルが作られた瞬間なのかもしれません。私の目が古いんだ、そう信じる!
一週間前に故障したバイクがやっと直った。
家から60キロも離れた、駅もないところで壊れた。あのときはホントどうしようかと思ったよ。最近はロクなことがない。 たった一週間バイク屋に預け、電車生活になっただけで、バイクの便利さを痛感した。 私の家には風呂が無いので、風呂に入りに行かないといけないのだが、電車だとこれがもう大変なのだ。駅の近くにないんだもん。片道30分はかかるんですよ? いろいろ疑問に思う。 駅まで歩くのに汗をかくからパーじゃないか、と。 わざわざ疲れにいってるようなもんだ。 バイクで行けば10分。羽根が生えているような気分だ。
今回も「エヴァ破」の話をします。
ネタバレがあるので、まだ映画をごらんになっていない方は注意してください。 ネタバレ防止のために空白をあけます。 じゃあ、このへんで。 「なんでメガネっ子のマリについて語らないの?」というツッコミがありました。 ああ、それはですねえ…… 実はその……、マリ、まったく私の好みに合わないんですよ。 今回はまだ顔見せ段階で、人間ドラマに本格的に関わってないから、「Q」以降で好きになる可能性もあります。 でも今の時点では「うええっ……」という感じです。 マリが悪いわけじゃありません。いままでのエヴァにない、面白いキャラだと思います。彼女の正体や目的が気になります。坂本真綾の演技もすごい迫力でした。ああいうキャラをやるとは意外でした。 でも私、胸や尻の大きい女性が苦手なんです。 綾波やアスカですら乳でかすぎると思います。もっと小さく! もっと! どれほど願ったことか。 メガネっ子だから好き、と、乳がデカイから嫌い、で後者が勝っているんです私の中では。 メガネをなくして、「めがねめがね~」と這いずり回るのも、「何十年前のギャグだ!」という感じですし…… あと、マリは「萌えキャラは、かくあるべし」というデータベースに徹底的に反している。 快楽原則を否定する、チグハグなキャラの作りをしている。 メガネかけて、長身で、巨乳で、足も尻も成熟して、面長で、サバサバした性格で、ボーイッシュな声で、戦いが大好きで、語尾が「~にゃ」で、チェックのスカートはいて…… なんだそれ……? どこの属性にも当てはまらない…… お前の発想がワンパターン? その通りです。 でも、萌えキャラというのは現実の人間よりも遥かに狭いパターンの中で成立しているはずです。 たとえばツンデレキャラというのは基本的にロリが入っているべきです。声は釘宮理恵のように甲高くなければならず、最大限低くしても伊藤静ぐらいの声です。乳もメンバー内では一番小さいのが定番です。 サクラ大戦のカンナみたいな大女がいて、メロンのような乳を揺らし、野太い声でツンデレな言動を取ったら、ギャグにしかならないと思いませんか? 「受けた」という実績の積み重ねこそが「パターン」「属性」を作っているんですから。パターンからはみ出すのは偉大な挑戦ですが、危険でもあります。 すなわち、マリのようなアッケラカンとした女性はメガネをかけてはならず、一人称はボクであるべきで…… いや、私ごときが、上から目線で論評しても意味がない。愚かしい。 まず生理的に「これはちがう……こんなんメガネっこと違う……なんで乳が大きい……なんで体がでかいんだよォォォ! あと赤いフチのオシャレメガネではグッと来ないんだよォ!」と感じたんです。理屈はいま考えてるだけです。 私の好みの幅は狭い、ということです。 いまにして考えれば、旧エヴァが作られたとき、「萌えキャラのパターン」は現在ほど確立されておりませんでした。 アスカは「いわゆるツンデレ」の枠内に収まりそうで収まらないキャラクターです。 綾波レイも、後発の無感情キャラと比較すれば感情だしまくりです。 パターンに分類できないのがエヴァキャラの魅力なのかもしれません。 ああ、でもマリっぺのよかった点を一つ思い出しました。 チェックのスカートをはいていることです。 あれはすごくいい。Qでもぜひはいてください。 (我ながらキモイ)
今回も「ヱヴァンゲリヲン破」の話をします。
この映画の見所は山ほどあります。戦闘シーンの迫力だけで「ロボットアニメの限界点を超えた!」「劇場の大スクリーンで見なければ損だ!」って思います。 でも、私が一番感動したのは、この映画が「自己責任論の先にあるもの」を描いてくれた点です。 旧エヴァが作られた1990年代は「トラウマ主義の時代」だったと思います。 ダメな奴がダメなのは「愛されなかった」「裏切られた」など、過去の心の傷が原因で、その傷を癒さない限り人間は変われない、救われないという思想が蔓延していたと思います。旧エヴァはその思想の代表格でした。 現在、このトラウマ主義は影を潜め、「トラウマがあろうがなんだろうが、人間は自分を変える事ができる」「変えるべきだ」という思想のほうが一般的だと思います。心の傷があって不利ならば、より努力すればいいだけだ、という。 人間の自由意志と自助努力を強く信頼しているんです。 しかし、それは悪く言えば、「変われない人間」は本人に全責任があるという考えに繋がります。 「トラウマに縛られている人間」など存在しない、「トラウマを理由にして怠けている人間」なのだ、という「行き過ぎた自己責任論」です。 自己責任以外の思想を認めない、わずかでも他者のせいにしたらクズ呼ばわり、という人間がウジャウジャいるじゃありませんか。 ネットを見てください。「就職できない」とか「病気で働けない」とか「借金が返せない」などという人間を、集団で「お前の弱さが原因だ」「お前が怠けているだけだ」と罵倒する光景が、そこら中にあるじゃないですか。自分が被害を受けているわけでもないのに、ダメのレッテルを貼って潰さずにはいられないんです。どうかしている。派遣村に関して、どれほどの罵倒が吹き荒れたことか。 この、「人間は自力で変われるという信頼と、それゆえの厳しい自己責任」が、宇野常寛の言う「決断主義」「サバイブ感」なんだろうと思いますよ。 ギスギスして、とても嫌な空気です。 でも、「ヱヴァンゲリヲン破」は自己責任論プラスアルファを描いてくれました。 シンジは変わったけど、彼自身の力だけで変わったわけではない。 ゲンドウを含む周囲の人間が、みんな少しずつシンジに歩み寄ったからこそ、彼の内側から大いなる力が溢れだしたのです。 最終的には本人の決断なんだけど、でも他人の影響がすごく大きい。 トラウマ主義と違うのが「誰か一人が深く愛してくれたから、トラウマが解消されて別人に生まれ変わった」という描写ではない点です。 シンジを変えたのは「みんな」、そして最後に「彼自身」です。 逆にいえば、今回の映画でもゲンドウが「お前には失望した」しか言わず、綾波やアスカとの間の絆も壊れていたならば…… シンジは膝を抱えて泣きながら言い訳、という行動しか取れなかったでしょう。 だから「ダメな奴」は、「人間関係に恵まれていないだけ」という可能性がある。 絆があればダメな奴も、力を出せるのかもしれない。 「いきなり自己責任」ではなくて、一度くらいは手をさしのべよう、ということになります。 「ヱヴァンゲリヲン破」の「絆主義」「関係性こそが人を救い、人を変えられる」という思想は、いまの時代を生き抜く一つの答えになると思います。 |
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