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ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設 ウェブサイト「カクヨム」で小説書いてます。 こちらです https://kakuyomu.jp/users/pennamec001
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 小野寺浩二「妄想戦士ヤマモト」の新バージョンが出ていた。
 「HDリマスター版」という、分厚い単行本2冊。
 おお! 読み返したかったんだよ!
 買ってきた!
 拍子を見ると、小野寺浩二は少し絵柄が変わった……?
 南雲とか渡辺が以前よりハンサムになってるのが笑えるぞ。

 中身を読み始めた。
 もうダメ! 笑いすぎて死ぬ!
 ゲラゲラ、ウヒョウヒョ、ヒイヒイと悶えながら布団の上を転げまわった。
 やっぱり最高だ。
 一番好きな漫画、まで言い切るのはちょっとアレだが、「一番好きなギャグ漫画」ではある。

 「妄想戦士ヤマモト」は、「萌え」「オタク」を題材にしたギャグ漫画だ。
 妹以外あらゆる属性に萌えることができる究極のオタク、ヤマモトが、ひたすら己の萌えを追求する。
 常識人のツッコミ役・松下がそれに振り回される。
 ヤマモトだけでなく、「美少女フィギュアの王国を築いた男・渡辺」や「めがねっ子のすばらしさを日夜布教する教団の教祖・南雲」など、イッちゃってるオタクたちが次々登場し、時にはヤマモトと戦い、時には力を合わせる。
 この漫画では、「オタク」というものを「博学な人」でも「特別な技術を持ってる人」でもなく、「変態」「っていうかキ印」として描いている。
 第一話からして、ヤマモトは、
 「子猫に傘をさしてあげたら、猫耳少女になって恩返しに来るかもしれないぞ!」
 などと本気で信じて行動するのだ。
 アレな人だ。放送禁止用語だ。
 ヤマモトはアニメの知識もあるし、渡辺はフィギュアも作れるが、それは「キャラにハァハァするための手段」であって、目的ではないのだ!
 はっきりいって、ある意味では「オタクというものを悪く描いている」。
 でも、すごくピンと来るのだ。
 これを読んだあとでは、「オタクとは厳しい審美眼を持った玄人である」みたいな岡田斗司夫的オタク観は、キレイ事にしか聞こえない。嘘ではないが、大切な部分を取りこぼしたオタク観だ。
 オタクってのは、ありもしない女の子が見えてしまい、それに惚れてシュッシュッポッポする変態のことだ!
 力強い言い切りが、心地良い。
 ヤマモトたちの言ってることは、オタク、少なくとも萌え系のオタクだったら一度は考える。
 考えた上で「ねーよ」って常識が阻んだことなのだ。
 自分の代わりに突っ走ってくれているのがヤマモトたちなのだ。

 実はこの漫画のオタク観も、描かれて10年経った現在では古いと思う。
 でも、「オタクとは、こうあってほしい」
 「よくも悪くも突き抜けた馬鹿であって欲しい」
 という希望を、私はこの作品からは感じる。

 で、面白かったんだけど。

 昔とは印象が違うんだよ。
 昔はヤマモトに憧れていた。
 「究極のオタク」「ああなれたら、どんなに幸せだろう」。
 あらゆる萌えを楽しみ、無敵の能力と傍若無人な性格で、障害をガンガン潰して邁進する。
 絶対できるわけないけど。
 で、憧れじゃなくて共感していたのが、もちろん、眼鏡っ子教団の南雲ね。
 わかるわかるわかる! って。
 
 でも今は、

 ヤマモトは「すごいと思うが、憧れない」。
 この人は何が好きなんだろう。オタクとしての核がない。
 メイド、メガネ、猫耳、ドジっ子……
 どうして、これらのものをみんな好きになれるのか。
 エルフなの? 核は。
 南雲も、いまや共感できないよ……
 裸眼の女に惚れられて、メガネ愛を捨てるかどうか悩むとか、そんな恵まれた男に共感できるか! 南雲がなんど醜態を見せても、その女はずっと南雲のことを好きで、私が更生させてあげるって言い続けてるじゃないか! 南雲のどこがそんなにいいの!
 最後はさすがに愛想を尽かされたようで、昔だったら絶対ありえなかった「ざまーみろw」という気持ちが湧き起こってきました。
 
 いま憧れるのは渡辺だね。
 他人の評価も世間体も気にしない。苦悩などない。
 強がりではなく心の底から、「フィギュアだけあればいい」。
 いちばん人間離れした心の持ち主。
 オタクとして、ゆるぎなく完成されている。
 完全に袋小路である、ともいう。
 ここまでおかしくなれたらどんなに幸せだろうと、思う。
 彼の奇行は笑いと同時に涙を誘う。
 
 おれ疲れてるのかなあ。
 
 こんな時、声が聞こえてくると、いいじゃないか?
 
 王様、王様がんばれって、フィギュアたちの声が……
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 漫画家の所十三(「特攻の拓」など)がヘイトデモを批判!

 という記事を、ネットで見かけました。
 ?
 と思って所十三本人のツイッターを確認したんですよ。
 すると、「外国人排斥反対」「原発反対」「集団的自衛権反対」「憲法九条改憲反対」「米軍基地にも批判的」みたいなことがたくさん書いてあって! すげえ驚いた。
 まさに

 !?

 って感じ。少年マガジン的驚愕。
 どういう思想を持とうと自由だし、部分的には彼の思想に共感するんだけど……
 でも、暴走族漫画を書いてる人がか……?
 暴走族って言えば日の丸がシンボルでしょ。
 正確に言えば、日章旗じゃなくて旭日旗。よくバイクに描いてるよね。
 暴走族≒右翼、民族派という印象が強い。それなのに……
 困惑。
 じゃあ嫌韓や憲法改悪に対抗するため、左翼側の漫画を描いてもらうか。
 あの絵で!!
 強烈なギャップにより、間違いなくネットで話題になると思うが……
 
 よく考えれば、漫画の表面的題材や意匠だけで右翼左翼を判断した、私がおかしいのか。
 
 山口貴由「覚悟のススメ」だって、表面的には右翼だけど、「誰にも人間をモノ扱いする権利はない」という、力強い人権宣言が盛り込まれているしね。
 私には、覚悟のススメは旧日本軍賛美ではなく、むしろ「軍隊、というか自衛隊のあるべき姿」を語っているようにみえる。
 「牙なき人たちのために戦う」「戦いを他者に強要しない」「賞賛や尊敬を求めず黙々と戦う」
 これらは葉隠覚悟の特徴だが、いずれも旧日本軍とは異なる、旧日本軍にはできなかったことである。
 もっとも山口貴由作品には、左翼思想の偽善性を皮肉ったような作品もあり……
 「悪鬼御用ガラン」とか……

 まとまりがなくなってしまった!

 山口作品のことはともかく、所十三がそういう人だとは知らなかったので、ほんと驚いた。
 でも、驚く俺が浅はかということで。

 追記

 「特攻の拓」に関しては原作者がいるわけで、仮に暴走族≒右翼だったとしても、漫画家の思想が右翼だとは限らない。
 漫画家本人の思想を知りたければ、一人で描いている「竜の国のユタ」を読むべきなのかな。

 ネットで「最近、能登さんが死んでばっかりなんだが」という書き込みを見た。
 能登さんって声優の能登麻美子さんね。
 
 そうだよなあ……

 「アカメが斬る!」 能登さんが出てきて6話で死ぬ
 「極黒のブリュンヒルデ」 能登さんが出てきて3話後に死ぬ
 「アルドノア・ゼロ」 能登さんが出てきて2分くらいで死ぬ
 「血界戦線」 能登さんが出てきて5分くらいで死ぬ(封印?)
 「プラスティック・メモリーズ」 能登さんが出てきて次の話で死ぬ
 
 おい!
 「シドニア」のユレ博士は大丈夫なんだろうな!
 不安になってきたぞ! 

 でも、念のためウィキペディアを確認したら、死んでばかりではない。
 最近では「まじもじるるも」とか「ノーゲーム・ノーライフ」とかにも能登さんは出てきて、そっちでは別に死んでいない。
 よ、良かったぁ……
 俺の観ていたアニメが偏っていただけか。
 「食戟のソーマ」にも出るけど、まあ、あの作品で死ぬことはないっしょ。

 アニメ「血界戦線」6話が泣ける!
 もう7話が放映されているから遅いんだけど、「血界戦線」6話が泣ける!
 主人公のレオ君と、キノコ型種族の少年ネジ君の、ハンバーガーを通じた友情。
 人間しか入れない町のハンバーガーを食べたがるネジ君、買ってきて上げるレオ君。
 だんだん二人が仲良くなっていく過程が微笑ましい。
 母親の事を語り合う二人、レオ君が繊細で思いやり深い性格だと分かる。
 ネジ君の、明るくあどけない喋り方が、逆に悲しみを引き立てる。
 ネジ君が特別な能力を持っていることが分かって悪人に拉致され、助けようとするレオ、それをまた助けようとするネジ君、二人の思いやる気持ちが、泣ける。
 ラストの、レオ君がハンバーガー食べて、わずかに残った思い出が蘇りかけて「こんなに涙がでる食べ物だったっけ?」というあたりが凄くいい!
 戦闘中心の話もいいけど、こういう異種族同士の心の交流みたいな話が特にいい! もっと見たい!

「ニンジャスレイヤー フロムアニメイション」について。
 第1話から第5話まで見ました。

 第1話を見た時の衝撃といったら。

 な、な、なんだこれ!?
 ニンジャスレイヤーってのはメガドライブのゲームなのか!?
 
 でも、つまらなくはない。
 手抜きって言ったら手抜きなんだけど……
 「キルラキル」でど根性ガエルみたいな絵柄を採用したことに意味があったように、この強烈な演出にも意味がある。
 格闘ゲームのストーリーモードみたいな、
 割り箸の先に絵をつけて動かしてるみたいな、
 横スクロールアクションゲーム(機種はメガドライブ)みたいな……
 作画崩壊を超えた「そもそもアニメじゃない」という……
 これにも、きっと、意味がある。
 1話と2話では、意味がわからなかった。
 でも3話と4話で、意味がわかった。
 まともにアニメしてない紙芝居シーンがあるからこそ、ちゃんと動いて構図もアニメっぽくなってる部分が際立って。
 男は紙芝居、女の子はアニメ。そう描き分けることで、女の子の、ヤモト=サンとアサリ=サンの可愛さがすっげー強調されている。
 よくよく見るとすごくシンプル、素朴なデザインで、絵だけを単独で見るとあんまり萌えないんですけど……
 でもめっちゃかわいい! 紙芝居パートと対比されるからだ!
 まあ単純に、私の好みもあります。
 おっさんよりも女の子の戦いが見たいよね。
 第3話の、レイプされそうな友達を救うために能力に覚醒するという流れが、私の好みにぴったりだから好き。
 金元寿子の泣き声が凄く本気っぽくてよかった! 
 ナニコレナニコレ! って、度肝を抜かれました。
 「家族を殺されたサラリーマンの復讐劇」よりも、「友達がレイプされそうになったから覚醒して超人になって戦う。だが、友達とは別れざるを得ない悲劇……」というほうが断然感情移入できる。
 
 5話まで見て、「これは作画枚数を減らす実験なのかもしれない」と思えてきた。
 5話は紙芝居というか、横スクロールアクションゲームみたいになってるシーンがなくて、普通のアニメなんですが。
 でも普通のアニメと言っても、それでもなお、「いわゆる普通のバトルアニメ」と比較すれば、色数も少ない、止め絵も多い、画面の一部しか動かない。非常に省力化されており、その省力化は「墨絵を意識した演出」として正当化されている。
 俺は素人だから作画枚数をカウントなどできないけど、主観で言うと、「血界戦線」の10分の1くらいしか労力使ってない。ように見える。
 「悪い」「手抜きだ」と怒るつもりはない。
 もしかして偉大な実験なのかもしれない。

 こないだ、ベテランアニメーターの神村幸子が
「今は作画の水準が高くなったので、新人は枚数を描けず、お金が貰えずに食べていけない」
 って書いていたじゃないですか? 自分のブログで。
 昔のアニメは絵が単純で、新人はその中でも簡単な絵を回してもらって枚数を稼いでいた。
 今はもうできない、作画の要求レベルが高くなってしまって、昔みたいにたくさん描くことはできない、と。
 
 アニメーターが貧乏な理由はたくさんありますけど、理由の一つとして「昔よりも作画が難しくなった」ことはありますよね、間違いなく。
 ロボットの形は複雑になってるし、戦闘シーンはバンクじゃなくて毎回描いてるし。
 動いてる途中、いわゆる「中抜き」でも、作画を崩すと「崩壊だ!!」ってネットで叩かれるし。
 「昔はロボットの目を光らせるのに透過光マスクというものが必要だったから、丸い目の形だけを描くカットがあったけど、いまはデジタル処理で光らせるから不要になった」とも、ネットに書いてありました。
 でも、ファンの欲求は限りがない。
 もっと動かせ、もっとアングルを劇的に変えろ、日常の小物もちゃんと描き込め、もっと表情を繊細に変化させろ。
 もっと、もっと、もっと……

 「ニンジャスレイヤー フロムアニメイション」は、その「果てしない作画高度化の流れ」に楔を打ち込もうとしている。
 作画枚数を増やさなくてもいいんだ、止め絵でも、墨絵でも、紙芝居でも、面白いアニメ、売れるアニメは作れるんだ。
 と、言おうとしているのではないでしょうか?
 私はそういうメッセージ、挑戦を感じ取った。


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