ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設
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新見志郎「巨砲艦―世界各国の戦艦にあらざるもの (光人社NF文庫) 」を読んだ。
ネットの一部、軍事系の人たちで話題になっていた本だが、「なるほど、これは凄い」。 「戦艦ではないが巨砲を搭載した軍艦」について解説した本。 結果として、19世紀・南北戦争のハンプトン・ローズの戦いから始まって日清戦争まで、「戦艦」というものが確立されていくまでの歴史を語る本にもなっている。 軍艦に装甲が施され、蒸気動力で自由に機動できるようになった。これまでの「木造帆船に大砲を搭載した軍艦」とは全く違う軍艦の可能性が開けた。南北戦争でその名を轟かせた「モニター」である。 分厚い装甲で従来の艦砲を完全に無力化し、巨大な砲を砲塔に入れて旋回させることで、従来の「小型の舷側砲」とは比較にならない火力を持つ。 「モニター」は軍艦の名であると同時に、「同じような軍艦」の「種類」をまとめて指す言葉にもなった。 しかし「モニター」は波の荒い外洋ではまともに航海できない、河川か、港湾でしか使えない艦だった。甲板はほとんど水面スレスレにあって、まるで潜水艦が潜行する寸前のように、波をかぶりながら進んでいくのだ。 外洋を長距離航海するには、やはり従来型の、多数の帆を備えた、船体が巨大で予備浮力のある軍艦のほうが遥かに優れていた。だがそういった船では、装甲と火力に制限があって撃ちあいではモニターに勝てない。どうすれば……? 海軍は、なんとか「火力」「装甲」「長距離航行性能」を両立させようと努力し、何十年も技術開発を続けたあげくに、このいずれもが高い「戦艦」を作り上げる。 だが、この本に載っているのは、まだ両立できなかった軍艦。 両立しようと工夫するが、うまくいかなかった軍艦。 あるいは、両立をあきらめてどれかの性能に特化した軍艦。 帆走軍艦に分厚い装甲と旋回砲塔を装備して、3つの要素を兼ね備えたかにみえた「キャプテン」。 しかし復元性が致命的に低下して、設計者と国民の期待にもかかわらず転覆沈没。 火砲をあえて諦め、「体当たり」にすべてをかけた衝角突撃艦、イギリスの「ポリフェマス」、アメリカの「カターディン」。アメリカのカターディンは徹底している。何が凄いって、艦首に衝角があるだけじゃなくて、真横の水線下も出っ張っていて、ナタやオノのような効果を持っている。敵艦と側面でぶつかっても、ズバッと斬り裂ける! 軍艦まるごと刃なり! でも実際には、どちらも計画通りの速度が出せなくて使い物にならなかったそうな。 衝角のせいで水の抵抗が非常に大きくなったということですかね? 「砲を積まずに衝角だけなら高速が発揮できるはずだ」という大前提が間違いだったので、普通に軍艦を作ったほうがよっぽどマシだったという…… そして、日清戦争で日本の旗艦を務めた、「松島型」。三景艦ともいわれる。わずか4000トンの巡洋艦級の船体に、敵戦艦である定遠・鎮遠を上回る巨砲を搭載した。そのかわり防御力はペラペラで、船体が小さすぎて砲もさっぱり当たらず、実戦では役に立たなかった…… いちばん蒙を啓かれたのは、三景艦と、黄海海戦に関する記述ですね。 わたし、勘違いしていました。 三景艦っていうのは、「トンデモ珍兵器」だと思っていたんです。 貧乏でまだ技術もなく、正攻法で清国海軍に対抗できないから、無理を承知で、ヤケクソ的に作ったものだと……第二次大戦末期に日本軍が作った数々のトンデモ兵器のように、どう考えてもそれはダメでしょうという…… 設計者エミール・ベルタンはバランスのとれた砲を積むべきだと主張していた、って話ですから、もともと設計段階で誤りがあったんだろう、作る前から失敗作だと分かりきっていたんだろうと。 エミール・ベルタン「オー、この船体に巨砲を搭載するのは無理がアリマス。小型砲を多数装備したバランスのとれた巡洋艦にするべきデース」 日本海軍「嫌でごわす。なにがなんでも定遠・鎮遠以上の巨砲を積むでごわす!」 エミール・ベルタン「ウィー、ムッシュー(苦笑)」 こんな感じだったんじゃないかなと。 でも違った。 比較的小型の軍艦に巨砲を1門か2門だけ搭載する、という軍艦は、19世紀後半、各国で見られたのだ。この本に実例がいろいろ載っている。三景艦は大きい方で、なかにはたった200トンのボートすらある。 そういう極端に小さいのはレンデル式砲艦といって、攻撃に対してあまりに脆弱で、役に立たないと判断されちゃったけど。 それらの小型巨砲艦とくらべて、三景艦は高速で、波が荒い外洋でも苦もなく長距離航海できる航行性能があった。「巡洋艦と呼べる性能を持っていたのは三景艦だけだった」。 小型巨砲艦は過去にいくらでも前例があり、しかも日本は過去のそういった艦の欠点を理解した上で、日本の状況(波が荒い)に合わせて改良している。 この艦には、「たとえ日本が定遠を手に入れても、荒海を航海できないから役に立たず、別に巡洋艦を作らなければいけなかったはずだ」という主旨のことが書いてある。 そう、ある意味では定遠よりも優れた軍艦だ! 三景艦はトンデモ兵器じゃなかった。ちゃんと合理性をつきつめて作ったものだった。 主砲は確かにぜんぜん当たらなかったけど、それはまあ仕方ない。 他の国と比べて、日本が特別にダメな軍艦を作ったわけではなかった。 黄海海戦(日清戦争で、三景艦と定遠・鎮遠が戦った海戦)についても知らないことがたくさん書いてあった。 そうか、「無信号運動法」か。無線のない時代、旗で信号を出して指揮をとるのが常識だったけど、日本はあえて信号を出さず、単に旗艦についていけ、という単純な運動をさせた。いっぽう清国は、複雑な艦隊運動に挑んだが、こなせず、それが勝敗を決定づけたと…… なるほどなあ、と思った。 1860年代、日本の幕府海軍は「開陽丸」を持ち、「圧倒的な海軍力を持つ」と言われました。 しかし、それからわずか20年で清は「定遠」「鎮遠」を保有。 開陽丸なんてあろうがなかろうが歯牙にもかけない圧倒的な強力艦です。 一片の装甲も持たない開陽丸に対して、300ミリ以上の装甲を持つ定遠。 主砲だって威力も射程もまるで違う。 まあ排水量自体が3倍違うんですけど、大きさだけじゃない、圧倒的な技術格差を感じる。 「三笠と大和」くらい戦闘力が違う。もっと違うかも。 1860年代から1880年代までの20年間で何が起こり、開陽丸タイプの「木造で、舷側に方を並べた蒸気軍艦」がいかにして時代遅れの物となったか、私は知りたかった。 知りたかったけど、体系的なことがネットに書いてなかった。 だけどこの本には書いてあって、「そうか、そうか!」と興奮しながら読みました。 軍艦一つ一つにの解説はネットにあるんですよ。たとえば定遠のことはウィキペディアに細かく書いてある。この本の記述より細かい。 だけど、軍艦の設計の変遷を一つの流れとして書いてあるのは、この本だけ。 ウィキペディアではわからなかった。 軍艦の発達史に興味がある人ならオススメ。 あと、1870年代にはすでに40センチの艦砲が普通に作られていたというのも、この本で知って驚いた。 もちろん口径が大きいだけで、のちの40センチ砲(戦艦陸奥、アイオワ等)よりも遥かに劣るものだけど…… この時代には40センチ砲があって軍艦に積まれていたのに、なぜ日露戦争時代の戦艦はどれもこれも判で押したように「30センチ砲4門」なのか、それも知りたいなあ。 この本を読んで、 1,開陽丸って戊辰戦争(1868年)の時点ですでに時代遅れじゃないか? 開陽丸が仮に座礁せず、榎本武揚の元にあったとしても、けっきょく甲鉄には全然かなわなかったのではないか? 南北戦争では、装甲を持たない艦は装甲艦に蹴散らされている。 (新政府が甲鉄を売ってもらえたかどうかは分からないが) 2,宮古湾海戦のアボルダージュが成功し、榎本武揚たちが甲鉄を手に入れても、「浅い海での運用に特化した艦で波に弱い」と明記されているので、運用できなかったのでは? なにしろ幕府海軍は悪天候に弱い。 という疑問が湧いてきました。 まあ、とにかく、知的刺激を与えてくれる、いい本でした。 PR |
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