ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設
ウェブサイト「カクヨム」で小説書いてます。
こちらです
https://kakuyomu.jp/users/pennamec001
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「叛逆」の感想や批評がいちばんたくさん読めるのは、やっぱり2chのスレだと思います。
いくら読んでも飽きない。 それ以外で、私が面白いと思ったのは、 http://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/diary/diary.htmlミクロKOSモス(11月5日の日記) これは感動的な文。 引用開始。 ほむらは不幸だったろうか?おそらくそんなことはないだろう。まどかは何ら真実を知らなくても、直感的に正しい道を選ぶ。それこそほむらの愛するまどかであり、まどかが愛するにふさわしい人物であり続けたことに、ほむらは心から満足していたに違いない。 引用終わり。 感動的なんだけど、でも、ラストシーンのほむらって、そんな殊勝なことを考えていただろうか…… もっと貪欲で、もっと直接的で、征服するような愛を出しちゃってるのでは。 二次創作でよくある、「変態ほむらさん」が洒落ですまない感じでは? 「ああ、まどかは私の知っている通りのまどかだ。だから、好き」「敵対してもいい、むしろ敵対できて嬉しい」「敵対すれば繋がっていられるから!」 そう考えていたんなら、「俺がイメージしていたほむら像」と繋がるので、俺はラストシーンを恐怖や悲しみではなく幸福感を持って受け止められるんだけど。 他にもhttp://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/「シロクマの屑籠」さんは、熱のこもったまどか記事を連発してくれている。 この人、オタクに対して辛辣なのに、でもアニメを応援する時は熱血だよなあ…… PR
無題
僕はハッピーエンド派ですよ。
アルティメットまどかですら救う事のできなかったさやかちゃんをほぼ完全な形で復活することができたじゃないですか。 しかも背景で楽しそうな百江さんをみるかぎり、他の魔女も同じような復活しているのではないかと。 つまり円環の理によって魔女システムから解放されるだけだった彼女たちを救済することができたんですよ。 そして、まどか自身をも円環から解き放つ事ができたじゃないですか。 作中で二人きりのときに、まどか言ってましたよね「私そんなことになったら寂しくて泣いちゃうかも」って。 そのときにほむらは決心したのです。たとえまどかの願いとしても、彼女を救うためならなんだってするって。 偽悪的に「悪魔」なんて卑下してますけど、まどかの笑顔をまた皆と一緒にみられるようになったのだから、これをハッピーエンドと呼ばずしてどう呼ぶというのでしょうか。 ところで。 僕はエバの旧劇場版と似たような印象を受けたのですけど。 人類補完計画の、「個人の個人的な欲望によって世界を変革してしまう」というあたりなんだか似てません? 映画中盤の日常が崩壊して世界が狂っていくシーン辺りから「甘き死よ来たれ」が脳内で鳴り響いて、杏子ちゃんやマミさんがいつビシャッと液体になってしまうのかビクビクしながら見てましたよ。 んで最後には翼を広げて光臨したアルティメットまどかが虚ろな表情になって首がもげ落ち、波打ち際でほむらちゃんがまどかの首をギュウギュウ絞めながら「気持ち悪い……」って言われてしまうんじゃ無いかとおびえていたんですが、そんなことは無かったです。 まぁそれに比べたらハッピーエンドとしか考えられませんよねぇ(笑)
無題
>こうひんさん
書き込みありがとうございます。 >さやか達を救ったからハッピーエンド そのへんは見解の差ですね。 こうひんさんは、「アルまど(アルティメットまどか)ですら救えなかった」と考えているが、私は「救えるが、救わなかった」と考えています。 TV版の最終話で、アルまどがさやかに言いました。 「さやかちゃんを助けるためには、何もなかったことにするしかなくて、でも、命をかけてでも叶えようとした願いがあったことは否定したくなくて……」 ちょっとセリフ違いましたかね、「否定」という言葉を使うキャラじゃないな、まどかは。 でもだいたいそんな感じで。 つまり、「たとえ死んだとしても、それを本人が承知のうえで契約して戦ったのなら、その決断を尊重する、奇蹟を起こして死をなかったことにするのは本人の尊厳を踏みにじる行為だ」 という考えに基いて、まどかは、「さやかなどを生き返らせることも出来たが、やらなかった」。 でも何にもしないのはあんまり可哀想だから、死に方だけは変えた。 魔女化して同胞を殺戮する前に、看取って天国に連れて行くことにした。 あえて、死に際にしか介入しないことにした、というのが私の解釈です。 でも、ほむらは、「人間の尊厳」なんて微塵も気にせず、まどかの過去の経験も、概念化の決断に至った葛藤も、全部無かったことにして、お仕着せの幸福を与えて地上に落とした。さやかの記憶も徐々に消えているので、さやかに対しても同じことをやっているわけです。 本人が覚悟した上で苦しみ、死んだ(概念化も含む)ものを「無かったこと」にする。 それは冒涜だったのではないか、と私は考えます。 そんなことやっちゃってよかったの、それこそQBのごとく、人間を駒としてみる態度ではないの。 まどかは「すべての魔女を消し去りたい」しか願ってないので、魔女を消し去る以上の奇蹟は起こせないはずだ、という意見もあるでしょうが、デビほむ(悪魔ほむら)がもつ力は、アルまどの力を奪ったものなので、デビほむにできることならアルまどにもできるはずだ、と考えます。 「ある意味ハッピーエンド」は同意します。 こんなハッピーでよかったのか、という…… 嬉しいような悲しいような、非常に複雑な気分です。 「悪魔ほむら派閥」で言えば、「エゴだよこれは(アムロ派)」ですかね。 ほむらが最初っからエゴキャラだと思っていたら、首尾一貫しているのでショックを受けなかったでしょうけど、TV版ラストで「まどかへの執着」を「まどかの守った世界を守る」という形で昇華した、と私は解釈したのです。 ちっとも昇華してなかったんかい…… もちろん、物語としてそれが駄目だとは言わない。 目の前で好きな人が「耐えられない」って本心を吐露したら、信念を撤回してでも助けてしまう、かもしれない、撤回してしまう人間の気持ちも、もちろんわかるし共感できる。 物語としてはすごく良く出来ている。 でも俺が好きだったほむらはこういうほむらじゃないんだ。ただそれだけ言いたい。 エヴァ旧劇場版(まごころを、君に)とは、確かに似てますね。 悪夢の中を延々ともがいているような、前衛的な映像表現も含めて。 キャッチコピーが「だから、みんな死んでしまえばいいのに。」ですからね(笑) あれと比べればハッピーエンドですよ!(笑)
無題
叛逆のモヤモヤの正体は、劇中で”正しい(=美しい)”とされる事と、現実のそれが違っていて、
かつまどかは劇中のセイギを、ほむらは現世のソレを代表しているからではないでしょうか。 まどかの行為や願いを肯定するという事は、つまり小学生を卒業して幾らもない世間知らずのガキが 青臭い純情と一時の衝動で命を散らすことを肯定するということです。願いを叶えた瞬間に永遠と なったまどかは、それ以降「成長」も「未来」も「変化」もない。 三十路近くの鳥籠の魔女なんて、アラサーの苦悩や不安やストレスを自分の娘以下のガキんちょの 価値観で慰められて、そいつの世界に取り込まれるんですよ。さながらピーターパンの夢の国の如く、 たった一つの願いのために命を投げ出し、純粋で一途なら正しいという魂ばかりが集まってるところに。 また、全ての「絶望した魔法少女だけ」の救いになったまどかは、「それ以外の世界全員」に 呪いを無責任に投げ渡した存在です。親から子を奪い、弟から姉を、学友から友を、それだけではなく 将来の出会いも、存在し得た子々孫々全ての命の可能性も摘み取った。魔獣からの非効率な魔力回収は QBにとっても、そして「魔力で生きている現役の魔法少女」にとっても負担が増えています。 そして物語の文法という点から言えば、「”魔法少女”にならないまどかは何のとりえもないのか?」 という、TV版冒頭で自分自身が出した成長課題に何ら答えていない。 当然です。その答えは、春まで小学生やってた中一風情に語れるものではなく、ほむらが願ったように 世界の中で生きていかなければ自分で実感して答えを出せるものではないのだから。 一見、考えに考え抜いて決断したように見えるまどかの願いは、しょせん徹頭徹尾QBに導かれた先の 答えです。マミの命よりも杏さやの間に割り込む方が大切で、さやかを生身の体に戻す方が大事で、 それも阻まれた後にQBが持ち出した「すべての魔法少女の絶望」を持ち出されて反応した答え。 それまでさんざん、マミよりさやか、ほむらよりさやかという評価基準を描かれてきた少女が、簡単に さやかではなく、見も知らぬ誰かの漠然とした救済のために願いますか? さやかを失った虚無の間隙を うまくQBが突いたと見るほうがずっと無理がない。つまりは、ほむらが止めていれば又QBの別の甘言や 誘導に乗って、別の答えを出していた可能性が高い。 * これら全ては日本人の美意識、桜のようにぱっと咲き、絶頂のまま散るのが「美しい」という感性にとても フィットします。 が。だからと言って「正しいか」と言われれば違う。”美しい”と”倫理的に正しい”とは 全く別の基準なのです。一途だからと言って、野猿の解散如きと命を引き換えにして良いかと言えば違う。 ほむらはまさに、その「美しい刹那こそ正しさだ」という乙女的純血、純情に敵対したのでしょう。 まどかの命そのもの、生きていることこそ尊く、死に様の安寧などと引換えにして良いものではない、と。 魔法の力ではなく、一人の少女の価値は少女自身でこれから幾らでも積み上がるものだ、と。 尊いものを願った対価は、穢れと苦しみに塗れた「醜い生」を自分自身が背負って見せる、と。 美しさまでは否定しない。円環の理そのものは壊さずに残しています。ただし、その美しさに殉じるという 「決意」だけは遠慮なく否定するし、踏み躙ることをいとわない。その上でまどかの美しさを穢さぬために、 ”美しさは正しさ”という幼い少女の価値観を守るため”だけ”に、自らを悪と規定した。 だから”悪魔”ほむらはまどかの前では美しいとも、正しいとも評価されようとは思わないでしょう。ならば 彼女はこう形容するしかない。”気高い”と。たとえほむら自身がほむらを否定しようと、我欲煩悩と呼ぼうと、 その穢れゆえにこそ彼女は気高い。
無題
>今北何行さん
書き込みありがとうございます。 私の考えとは全く違うのですが、ハッとさせられるような意見でした。 時間があるときにじっくり返事を書きます。 「まどかの概念化はQBを出しぬいたわけではなく、誘導されたものにすぎない」というのは作品を根底からひっくり返す爆弾意見ですが、そう言われてみれば! という気もしないでもない。
無題
まどかが神様になるヒントをに与えてしまったのはほむらですし、まどかが神様になるだけの力を与えたのもほむらなんですよね。
ほむら本人は意図していなくても、結果的に円環の誕生に手を貸してしまった訳です。 よく言えばほむらのお蔭、悪く言えばほむらのせい。 まどかの決断は、良くも悪くもほむらのアシストが無ければ成立しないというのが、問題をややこしくしている原因ではないでしょうか。 叛逆でのほむらは、自身の罪の精算、まどかに対する贖罪がしたかったのではないかと個人的に感じます
無題
>>通りすがりさん
書き込みありがとうございます。 神様になれる力を与えたのは、たしかにほむらですよね。 具体的に神様になるための決断、意思決定に、どこまでほむらが影響を与えているかは不明ですが…… (俺の予想では、12話で願い事を口にするまでのまどかにとって、ほむらはたくさんいるかわいそうな魔法少女の一人であって、特別に重大な存在ではなかったと思う。「最高の友達」だと知ったのは、願い事を言った後の話) でも、ほむらの立場からして、まどかに贖罪意識をいだくのは普通ですよね。 ネットでは「ほむらは欲望で動いた自己中なのか、まどかのために献身した愛の人なのか」という議論があるんですが…… ほむらの本心は、ひとつに決定できず、いくつもあると思うんです。 まどかと仲良くホーリークインテッドで牧歌的に戦いたい、というのも確かに本心だし、 まどかに救済されたい心もあるし、 まどかの概念化を後悔して、人間に戻したい気持ちも本心だし…… 単に独り占めしたいという欲望すらあるでしょう。 まどかに円環されるのを拒否した時、ほむらの中にはこれらが渾然一体となっていて、それらぜんぶをひっくるめて「呪いよりもおぞましい色」「愛よ」だった。 その「ひっくるめた」なかでも、贖罪意識はかなり大きいですよね。 贖罪意識が強かった、ということを考えれば、「まどかの意志で概念化したのだから尊重しなければ」という考えは吹き飛んでしまいますね。「まどかがああいう意思をもったのは私のせい」だから。
無題
>>ますださん
個人的な考察ですが、ほむらはまどかを絶対視・神聖化する事で、まどかを神様にした罪悪感から目をそらしていたのではないでしょうか。 ほむらは「自分がループしたせいでまどかを神様にしてしまった。だけどまどかは望んで神様になったんだ。結果的にまどかの理想の成就に自分のループが役立ったんだから、自分の願いも無駄じゃなかった。」と考えていたかったのだと思います。 しかし、花畑でのまどかから「大切な人達と離ればなれになるのは辛い」という言葉を聞いてしまう。 それによって「まどかを助ける為に奔走した結果、却ってまどかに辛い思いをさせてしまった」という自身の罪を浮き彫りにされてしまったのではないでしょうか。 まどかの決断を尊重しようと努力はしていたでしょう。しかしその決断の中に少しでも不幸が存在するなら、どんな手を使っても払拭するべきだという考えに今回の映画で至ってしまったのだと感じます。 本編11話で自分のループがまどかの才能を引き上げていた事を知った瞬間、魔女化寸前までSGが濁ってしまった事から分かるように、ほむらはまどかの不幸に自分が関与している事に耐えられない人間ですから。
無題
>通りすがりさん
返信が遅くなりました。すみません。 興味深いですね。 私はいまでもTV版ラストの「愛する人の守った世界を守る」ほむらの決意が大好きです。人生に残る名シーンです。 だから、「叛逆の物語」で、その戦いが破綻してしまった、ほむら自身も、かつての誓いを覆した、ということがとても悲しいです。「ヒーローは正義の信念を変更してはならない、愛の信念も変更してはならない」ということです。 でも、ほむらを嫌いになれなくて、なんとか納得しようとしているのです。 「仕方ない」くらいには納得できるようになりました。 通りすがりさんの解釈だと、「変節したわけではなく、欲望や迷いに負けたわけでもなく、最初から最後までまどかのことが好きだから取った行動」として、それなりに筋が通りますね。 ネットで「ほむらは逃げたんだ」とか「我欲に負けた」「嫌なことがあったら逃げ出して現実を書き直す、一番だめなところが成長してない」とか言われるたびに「ムキー!!!」と憤慨します。 ほむらは、たぶんネットで批判されている程度のことをは全部自覚してると思います。 そのうえで、たとえ世界の誰から糾弾されようと、自分自身でも罪悪感を感じながらも、血涙をながして行動しているんだと思います!
無題
こんちは。
ますだ様に敢えて聞いてみたい。「鹿目まどか」と「円環の理」は同一の存在か? …魔法少女って2種類いますよね。「変身ヒロイン」と「魔女っ子」。 変身ヒロインはマミやさやかみたいに、プリキュアやハニー、セラムンのように 「闘うために」魔法を使う者。「闘う相手がいる限り」死ぬまで戦士、魔法少女。 ”永遠に絶望の結末と闘い続ける”者。 魔女っ子は「自分が変わるために」魔法を使う者。多くは人助けをしたかったり、 魅力に溢れる大人に憧れて、そうなりたいと悩み、少しだけ魔法に後押しされる者。 「いつかは魔法でなく自分自身の成長で」問題を解決する者。 「ただの人間の自分には、何の取り柄もない」「将来も凡庸な人間だろう」と悩んで、 「人助けが出来ればそれだけでいい」と思っていた子は、どちらになり得たのでしょう。 そして、その子にとって、選んだ結末は祈りを正しく反映した姿なのでしょうか。 セーラームーンやハニーは永遠に戦い続けても美しい。闘いが存在意義だから。 クリーミーマミが魔法の力でレディになったままだったり、姫ちゃんがリボンの力に 永遠に頼り続けたり、おジャ魔女が魔法無しでは何にも出来ない魔法だけが取り柄の 少女たちだったら、彼女達は美しくいられたでしょうか。 人助けをしたい、魔法少女を泣かせたくないというまどかの心根は凄く美しく正しい。 それはいい。 では、”自分が絶望しないよう願ったから永遠に概念でも辛くないよ!”というのは、 その心根通りの、魔法が無ければ取り柄のない少女が正しく育った姿なのでしょうか? ・・・そう。ほむらが成長してないとは良く聞きますが、じゃあまどかは、成長したの? 成長してない子なら、成長出来る土壌に戻した方が良いじゃない。 そこがたとえ、他人の庭であろうとも。
無題
横レス失礼。
カードキャプターさくらはそのどっちのカテゴリーに入りますかねぇ。
無題
>今北何行さん
書き込みありがとうございます。 コメントが長くなりすぎたので、あらたに記事を作って、そっちにレスを書きますね。
無題
>こうひんさん
さくらは難しいですよね。 カードと戦う、という物語でありながらも、「敵があるかぎり永遠に魔法少女」「戦うことが存在意義」には、明らかにあてはまらない。 「魔女っ子」に近しい存在では? まあ両方といえば両方ですが。 |
カレンダー
フリーエリア
最新コメント
[10/25 Home renovation]
[10/25 Быстрые деньги Минск]
[10/19 TopHost]
[10/19 CloudVPS]
[09/22 Harrytebra]
最新記事
(05/17)
(04/06)
(03/22)
(06/16)
(05/29)
最新トラックバック
ブログ内検索
最古記事
(09/05)
(09/06)
(09/07)
(09/10)
(09/12)
カウンター
アクセス解析
|