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ますだ/ペンネームCの日記です。06年9月開設 ウェブサイト「カクヨム」で小説書いてます。 こちらです https://kakuyomu.jp/users/pennamec001
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古い話なんだけど。
 2月20日発売の週刊少年マガジンに「聲の形(こえのかたち)」というマンガが載ったんですよ。
 このマンガ、ネットで話題になりました。
 主に批判的な意味でいろいろ言われていた。
 その批判を一通り呼んで、私自身が「聲の形」読んで感じたことと練り合わせた。
 すると何かが浮かび上がってきた。
 なんで私が「琴浦さん」の4話~の展開に不快感と拒絶を覚えているのか。
 わかった。
 「友だちになろう」がイヤなんだ。納得出来ないんだ。あり得ない反応だと考えている。

 「聲の形」は簡単に言うと、イジメの話です。
 聴覚障がい者の女の子がクラスに転校してきて、主人公の少年はじめ、クラスメートみんなでその娘をイジメる。楽しそうに。
 ところがある時、イジメの矛先が主人公に向いてしまう。
 自分がいかに残酷なことをやってきたか気づいた主人公は、女の子に謝罪しようとするが、もう彼女は学校を去っていて、謝りようがない。
 数年後、大人になった主人公は女の子に再会して、習っていた手話で謝罪を伝える。女の子も受け入れてくれる。これから二人は仲が良くなるだろう、と予感させて終わり。

 このマンガが技術的に駄作だとは決して言わない。
 むしろ上手いと思う。
 でも技術の上手い下手とは違う部分で、私はこのマンガを拒絶する。
 
 ネット(Twitterとか、2ちゃんねるとか)では、『イジメっ子が十分に報いを受けていないのでカタルシスがない』『主人公は反省したようだが他の連中がどうしたのか描かれていない』という不満があるようです。
 同感なんだけど、私はそれ以前に、ある強烈な思想を感じ取って、この作品をまるごと嫌悪する。
『友達になろう思想』です。
『イジメっ子とイジメられっ子は友達になれる。友達になるべきだ』
『イジメられっ子もそれを望んでいる』
 という思想。
 バカな。と思わずにいられない。
 イジメという言葉で隠蔽されているが、主人公は犯罪者なんですよ。集団で女の子に暴言を吐き、侮辱し、補聴器を奪って壊し、危害を加えたんです。それも一度や二度じゃなくて、何ヵ月も連続して。
 強姦の犯人が被害者のもとに現れ『友達になろう』とか言ってるのと同じですよ。『また強姦するつもりか?』としか私には思えません。
 主人公よ。『謝罪したい』、それはわかった。だがなんでそのあとに『友達になろう』が出てくるのか。
 自分のやったことの罪深さを少しでも自覚していれば、口が避けても言えないはずだ。
 あなたは宮崎勤と友達になれますか。宅間守と友達になれますか。
 百歩譲って、あなたにはできるかもしれない、だが被害者遺族の前で言えますか。こいつと仲良くしろと。
 犯罪者の分際で被害者と友達になりたがる! 酷い話だが、それだけならまだよい。この主人公が厚顔無恥なヤツというだけだ。
 だがこの漫画はさらに理不尽!イジメられっ子の娘が『友達になろう』を受け入れてしまうこと。それどころか『昔から、手話で、友達になろうと言い続けてきた』のだ!
 バカなー!
 幼女レイプ犯が数年後に被害者に再会して、

 レイプ犯『友達になろう』
 被害者の幼女『嬉しい! 私もあなたと友達になりたかったの(ポッ)』

 いや、ないって! こんなのあり得ないって! 
 犯罪被害者の胸に、来る日も来る日も吹き上がってくる想いは怨恨です。
 加害者に罰を与えてやりたい、自分の苦しみを少しでも思い知らせてあげたいという。ヤツが膝まずいて命乞いする姿を、願わない日はない。
 もし恨みが晴らせないならば、次に来るのは恐怖です。もう私に関わらないで欲しい、もう私の前に姿を現さないで欲しい、一生ずっと遠くに行って欲しい。怖いから、またやられるんじゃないかと、何年たっても怖いからだ。永遠に隔離してほしい。
 主要な感情はこの二つ、『謝って欲しい』でも『償って欲しい』でもない。友達なんてとんでもない。
 なのになぜ、この娘は憎しみと恐怖を抱かない。そんな聖人が存在するはすがない。
 「もう恨んでないよ、もういいよ」とは言うかもしれない。
 でもそれは「恨んでも何も解決しないし、自分も楽になれないから、疲れ果てて諦めた」のです。
 「諦める」と「許す」の間には無限の開きがある。
 まして、許す(マイナスをゼロに)ではなく、友達になろう(マイナスをプラスに)だなんて、そんなの考えるわけがない。

 このマンガ、『加害者の願望』で描かれているのでは?
 『強姦したけど相手は感じてるから無罪』っていうマンガと同じですよ。
 自分の罪悪感を軽くするための願望です。
 イジメられっ子は友達になりたがっているのだと、その声に耳を傾けさえすれば良いのだと、あり得ない解決策をはかる。だから謝りさえすれば簡単に関係が修復できるのだと、大したことではないのだと。
 相手も関係修復をのぞんでいるのだと!
 このマンガの作者は「警鐘」や「問題提起」のつもりで描いているのかもしれない。
 でも私の目には「イジメっ子の自己正当化マンガ」に見える。
 
 もういちど言う。
 集団で危害を加えてきて、それにたいして十分な償いも反省もしていない人間と「友達になる」!?
 それは悪に屈服し媚を売る行為であり反社会的だ。
 そうとしか思えない。そんなのをハッピーエンドとして描くのは不自然であり得ない、共感できない。
 「琴浦さん」も同じで、「イジメっ子と友達になる」という発想自体にどうしても嫌悪をおぼえる。
 教師は「仲直り」という言葉が大好きで、イジメというものを単なる一時的なケンカだと言いはり、「仲直りしろ」って執拗に言いいつのりますが、しかし「直るべき仲」なんて存在しない。血の通った人間関係なんて一片もない。
 イジメっ子にとってイジメられっ子というのは人間じゃないんですよ。
 突っついたらピクピク動く面白いオモチャなんです。
 人間のカタチをしているけど絶対に人間ではない、殴っても脱がせてもいい泥人形として何年も何ヶ月も扱われるんですよ。
 それなのになんでこっちは相手のことを人間扱いしてあげなくちゃいけないのか。

 さらにはっきり言っちゃうと、「友だちになろう。みんな仲良く」という考えこそがイジメを産んで、そこまでは言わないにしても「イジメを激化させて」いるんじゃないのか?
 仲良くなれない人はいる。
 「仲良くなってはいけない人」すらいる。
 「いけない」というのは、道徳的な話というより、お互いにとって危険だからやめましょう的な意味。
 仲良くなれないのに、「いっしょに、なかよく、ともだち」と言って同じ場所に閉じ込めて、会話しろ、いっしょに遊べと強要し、一人でいることを決して認めない。「友だちにならない自由」を教師は絶対認めない。ひとりになりたがったら「秩序の破壊者」として「おまえのせいでみんなが迷惑してるんだぞ」「なんでみんなとおなじにできないんだ」と叱られる。「こいつはクラスの空気に逆らった、ヒトではないもの」としてレッテルが貼られる。その瞬間から、「みんなでこいつをいたぶろう、人間ではないこいつをいたぶって、自分たちが人間であることを確認しよう」という生贄の儀式が進行する。そんな加害者たちの集団と、なんで「仲良く」を強制され、「目を背けるな、握手しろ」と言われ続けられなくてはいけないのか。なんで「仲良くできないお前が悪い」「学校に行け」なのか。どうしても嫌だ。納得できない。

 熱くなりすぎました。自分の体験とマンガをごっちゃにしすぎだ。

 言いたいことを要約すると、
 「イジメっ子とイジメられっ子が仲良くなる、という展開を容認できない」
 「それも、イジメられっ子のほうが、仲良くなることを望む、というのは、どうやっても納得できない」
 そして、
 「イジメってこういうものなんだ、イジメられっ子の心ってこうなんだ(仲良くなりたがっている)、という、デマが世の中に広がることを、私は恐れる」
  
 このマンガを真に受けた人達が、「友だちになろう」と言ってイジメられっ子をますます苦しめないか。懸念しています。
 
 追記

 このマンガ、連載になるそうですね。
 読み切りと同じ話を丁寧にやるのか、違う展開になるのかは知りませんが、気になります。
 今度は、「友だちになろう」の欺瞞性を描いてくれるのか。
 じっくり読んで結論を出そうと思います。

 2019年9月 追記

 この記事にたくさんのコメントをいただいております。
 ありがたいことですが、どうもコメント欄が長くなりすぎたのか、みなさんのコメントがうまく表示されません。
 すみませんが、今後、この記事について何かおっしゃいたい方は、他の記事(最新の日記など)のコメント欄に書いていただけませんか?

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 ますだ「おれ119キロなんですよ凄いでしょうパーマン1号みたいでしょ」
 某「速度と体重を比べるなよ。っていうかパーマンって91キロでしょ」
 ますだ「そんな大昔のパーマンの話をされても。ぼくが知ってるのは新しいパーマンだから119キロです。クルマの性能向上に合わせて速度を上げたらしいですね」
 真の若者「パーマンって何ですか」
 
 日本人でパーマン知らない人がいるとは!
 
 そういえば、引越しで古い荷物をまとめていると、ウエスト91センチのズボンがたくさん見つかった。昔は91センチだったのか。
 いまでは100センチを軽く超えているので、どうやったって履くことはできない。
 119センチよりは細いですよ言っておくけど。
 でも今のペースだと119センチになるのも時間の問題だな。
 91センチに戻りたいな。

 貧乏ブログの次はデブブログか……
 
 永遠に終わらないか、と思われた引越しが、ようやく終わった。
 旧アパートの鍵も返してきた。いまでは新居で、たくさんの段ボールに囲まれてパソコンのキーボードを叩いている。
 お風呂にも入った。なんと新居には風呂がある! ボタン1つで自動的に沸かしてくれるというオーバーテクノロジー! 昔から普通にあるけどさ。俺は体験したことがない。っていうか体験したはずだけど忘れた。風呂のない銭湯通い生活を19年も続けてきたので「家に風呂がある」ということに強い非日常性を感じるようになる。ホテルに泊まったような気分。
 うーん素晴らしい。冬の寒い日、バイクで外を走らなくても風呂に入れるのは気分最高。
 でもねー。
 狭いよ……風呂桶が。
 私が望んでいた大きさの半分だ。
 手足を伸ばすどころかあぐらもかけない狭さ。尻餅すらつけない。体育座りに近い体勢で膝をギューッと抱えて体を押しこむ感じ。いてて足がつる、足がつる。缶詰かよ俺は。まあ浴槽の容積が170リットルで俺の体の体積が120リットルだから窮屈なのは当然なのだが。日本の住宅はこんなアメリカンサイズのデブッチョを想定して作られていないのだ。
 しかしつらいわ! 風呂に入ると逆に疲れる!
 シャワーだけというのも味気ないし……
 やはり部屋の片付け・荷物の箱詰めが間に合わなかった。
 2日休みをとったが、それでも足りなかった。
 箱詰めは7割くらい終わったが、細かいゴミを出せず、部屋中が黄色いゴミ袋で埋まっている状態でタイムリミット。引越し屋さんが来てしまった。
 案の定、足の踏み場もない状態では引越し作業ができないと言う。冷蔵庫とか本箱とかは重いしね……
 選択肢は二つ。

 1、今日は帰ってもらって、ゴミが片付いてからまた来てもらう。
 2、運べる分だけでも運んでもらう。残ったぶんを二回目の引越しで運ぶ。

 後者を選んだ。「ゴミが片付いたら」とか言ってたら、おそらく永遠に呼べない。今回だって引越しがあることは1ヶ月前から分かっていたのに全然片付けられなかったのだ。
 とにかく少しでも引越しを前進させる!
 そんなわけで梱包が終わっていた段ボール箱を20箱、運んでもらった。
 布団と、パソコンと、若干の家電製品。本が数百冊。わずかな服。
 立ち退きの日を延ばしてもらった。あと1週間。掃除は間に合うのか。
 1カ月あってもサッパリだったものが、できるのか。
 憂鬱だ。時限爆弾が耳元でコチコチいっている。
 しかも布団が移動しちゃったから寝るときは新居に行かないといけないし。

 引越しが終わったら幸せになれると信じて、頑張るしかない。
 世の中の人は、こんな内臓を吐き出すような苦しいこと(部屋の片付け)を日常的にやっているのか。
 ちかぢか、引越しをする。
 引越しなんて大嫌いだ。できれば一生このアパートに住みたかった。
 築50年風呂無しでも良いじゃないか。
 だが出て行かなければいけない。
 次の家を借りる事は出来たし、引越し屋の手配もした。
 あとはゴミを捨てて、荷物を箱に詰めるだけ。
 ところが、これが最大の難関で、何日かけても全く終わらない。
 20リットルのゴミ袋を20枚ほど使ったが、部屋の様子はまったく変わらず足の踏み場もない。
 そして、ゴミを捨てるという作業は私の精神をすごく苦しめることが分かった。
 嫌だ、嫌だ、という気持ちが沸き起こってきて、「ああああああ!」と絶叫
 布団の上を涙目で転がる。
 体が痛くなって重くなって、「何もかも投げ出してネットカフェで暮らしたい」という誘惑が押し寄せてくる。
 誘惑と戦い続ける。19日に引越し予定だが、全く間に合いそうにない。


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